稲刈と稲こき・籾挽き

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稲穂が黄ばみ穂がたれると「稲毛出来七月末より十一月中時分迄刈り取り申し候」(享保十五年、孫兵衛新田「村鑑指出帳」)とあるように早稲は立春から数えて二二〇日過ぎから、晩稲は十月上旬頃に刈取りして十一月下旬には刈仕舞となった。
 稲刈仕事はまず田の水を排水(水切り)してから、刃鎌・鋸鎌を使って、田の隅から順次刈倒していく。それを束ねて畔道に近い田の中に竹組の稲架を作りかけて乾燥させた。これを当地方ではノロシカケとかオダガケといっている。乾田では刈った稲穂を上に向けて地干して、一〇日から一五日位して「稲揚げ」といって馬の小荷駄や荷車で納屋に運び、収納した。
 脱穀作業は稲こきといい、千歯こきを使った。千歯こきには、歯が竹製の竹ごきと鉄製の金こきの二種類があり、近世後期には金こきがかなり普及していたようである。また、それは「後家ごろし」の俗称もあった。こき上げたあとノゲ(芒)の多い品種はノゲウチといって、フルウチボウ(連伽)でノゲを取る仕事も行なっていた。「覚帳」によると栗山新田の秋葉家の天保九年の場合には、「十月二十八日稲こき仕舞」となっている。
 

Ⅴ-6図 千歯こき

 脱穀した籾を天気のよい日に庭の筵の上に干し、まんべんなく乾燥させ、籾挽きに移った。スルスヒキとか籾摺ともいい、最低三、四人の人手が必要で、エシゴト(結仕事)による共同作業で行なうことが多かったようである。その調整過程を簡単に説明すると、①乾燥した籾を土ズルスを回してアラヌカ(籾殻)を摺りとり、②籾立てといって唐箕でアラヌカを吹き飛ばし、③玄米となったものをさらに「万石通し」にかけて選別した。④最後に斗枡で計り俵に詰めた。それを年貢や小作米として納め、僅かに残った米が百姓の生活の糧となったのである。