麦作り

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近世期の農民にとって麦は米と並び重要な作物であった。その種類には小麦、大麦(裸麦)があり、麦飯・うどん・団子などから醬油・味噌の原料、さらに牛馬の飼料と幅広く使用されていた。
 さて、麦の種蒔き時期を見ると「麦は土用中より同後まで蒔き付け」(前掲、孫兵衛新田「村鑑指出帳」)とある他、「覚帳」でも「麦蒔き初め」を見ると天保八年(一八三七)の場合九月六日、天保九年(一八三八)は九月十三日になっており、秋の土用(立冬の前十八日)前後であったことがわかる。
 播種は陸稲の畑と早稲の乾田をうない、マンガ(馬鍬)やコスリマンガ(擦り馬鍬)で整地して畝を立て、米糠・堆肥と麦種を混ぜ合わせ直蒔きし足で土をかける方法をとっていた。この際種子は一反当たり大麦八升、小麦六升が適量であったようである。なお、麦蒔きを戌の日に行なわないという禁忌は、広くいい伝えられてきた。
 麦蒔き後の仕事といえば冬場の麦踏み・作切り・土入れがあった。中でも作切りは十一月初旬から十二月にかけての「冬ばり」と一番切り、二月頃に二番切り、三月頃三番切りと三、四回程行なっていた。その目的は麦の根元に土寄せをすることによって、寒風から麦の苗を守りかつ除草することであった。また麦踏みも三、四回行ない、霜柱によって苗が浮き上がるのを防いだり茎を丈夫にするためと考えられていた。土入れには近世後期にすでに普及していたジョレンという土振り道具を使い、畝間の土を麦に振り掛けて倒伏を防ぎ分結を促した。
 麦の収穫作業は「五月時分苅り取り申し候」(前掲「村鑑指出帳」)とあり、この時期田植え仕事と重なるので五月初旬から一か月くらいは百姓にとって忙しい思いをする時期であった。草刈鎌で刈り取った麦は畑で二、三日干した後、たばねてヤリ竹やショイバシゴ(背負梯子)で畑から運びだして納屋に積んでおいた。この作業を「麦揚げ」といった。
 それを田の草取りの間をぬって脱穀した。大麦・小麦ともに千歯こきを使って麦こきしたが、家によっては小麦だけムギブチダイ(麦打ち台)や臼を横に転がしてその腹に穂を打ちつけて脱粒した。これだけではなくフルウチボウで打ち、粒にしノゲを折った。調整はまず篩と唐箕にかけて風選して万石に通し選別した。その後数日間乾燥して一応の麦作りは終わる。この一連の作業は夏の天気の良い日中に、短時間の内に行なってしまわなければならないので、家族以外の人手を必要とし、共同作業であるエシゴトに頼ることが多かった。
 

Ⅴ-7図 フルウチボウ

 前述した麦作も天候が順調であった年の栽培収穫であって、次の史料が示すような天災に見舞われることもあり、収穫量が激減してしまったということも稀ではなかった。
 「一、岡田郡村々当麦作の儀 去る冬照り続き候上、大風度々烈しく吹き候処に付き、麦作茶園共に殊の外相痛め麦凍り抜け根葉共に吹き枯れし、当春に罷り成り候ても一向青し申さず過半用立て申さず候、尤も何拾年にも覚えこれ無く大変麦作損亡に御座候(略)」(安永四年 秋葉光夫家文書)。このように冬場の日照りと大風によって麦が枯れてしまい、大きな被害を被ったことが述べられているが、この他に収穫期の水害にも痛めつけられることも、度々あったのである。