衣の生活

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さて、当時の衣服についての史料は町内で殆ど見ることが出来なかったが、近世後期に遡れる民俗伝承から、当時の人々の衣服を推察しておくことにしたい。
 当町地方は近世中期頃、棉の栽培が盛んで手織りの木綿が自家用として作られていた。「百姓農業の間(略)女は木綿織り申し候」と天明二年(一七八二)の孫兵衛新田の「村差出明細帳」にあり、同村嘉永五年(一八五二)の「村方明細書上帳」にも「農業の外(略)女は糸挽き機織り等仕り候」と記録されているように、当時女たちが農業の合間に綿をロクロウと呼ぶ道具で実を取り、村内の綿打ち職人に綿を打ってもらった。それから撚りをかけながら糸にして機にかけて木綿を織り上げたものである。その布地を紺屋とよぶ染め物屋に頼んで染色するか、自家でも藍などの草木を原料に灰汁を、媒染剤として染色し、着物に縫い上げて仕事着や普段着としたものである。こうした伝統的技術を背景にして明治期の「石下木綿縞」、さらに「豊田紬」「石下紬」へと発展してきたのである。
 農民の仕事着はノラギ(野良着)といい、男は上着に紺の野良ジュバン、下に紺のモモヒキをはいたもので、女は手さしに紺のノラジュバンで前掛を締め、下には紺のモモヒキという衣装が一般的なものであった。寒い時期を迎えるとノノコデッポという筒袖の綿入れの袢纏や袷を着て作業していたようである。被りものは手ぬぐいで男はハチマキ(鉢巻き)やホッカブリ(頰被り)、女はアネサンカブリであり、暑い日の仕事は菅笠、男はイグサの編笠を被り、陽よけ蓑を着たものであった。雨の日には藁蓑や笹蓑を着用していた。履き物について見ると農作業は専ら裸足で、寒い時や野良への行き帰りにワラジ(草履)を履いていた。その他に「稲作と畑作」の項で述べたが、深田の作業にはナンバと呼ぶ田下駄が不可欠のものであった。なお、職人の服装は主として印袢纏に腹掛け・モモヒキ・足袋草履が一般的であった。
 仕事が終えた夜間や休日の家居に着る着物は、男の場合木綿の筒袖の長着に三尺帯を締めることが多く、冬には袷に綿入れの胴着に袢纏やチャンチャンコを着ていたし、女も木綿の長着で冬には袷にして綿入れの着物を身に付けて自家製の足袋に草履を履いたものである。子供について見ると筒袖の木綿縞・絣に三尺帯で、冬には長着の袷に綿入れの胴着か防寒用のジュバン、下体はモモヒキと足袋であったという(高橋武子『関東の衣と食』、「茨城県の衣」)。下着は男は六尺フンドシ、女はハダジュバンにコシマキというのが常であった。
 

Ⅴ-8図 野良着とミノ