食生活

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当時の主食糧であった麦・粟・稗などは「覚帳」の天保十二年の五月十四日(半夏の日)と十六日の項に「けしね拵」とあるようにケシネ(褻稲)といわれていた。
 食糧の事情は農業生産と直接つながるもので凶作や災害が続くと天明年間(一七八一~八八)のように食糧不足による飢饉が発生することが多かった。一般に当地方の農村は荒廃し人口が最も減少したといわれている天保期の穀物貯蓄の状況を示す史料が崎房村の天保七年(一八三六)九月十二日の「村中穀物改帳」と「小前米穀味噌一式取調帳」である。とくに後者の史料中に「九月十五日より五月十五日迄〆八ケ月此の分弐百四拾日壱人壱日に付き五合つつ積もり」とあるように、これは凶作の食糧不足から村中の穀物を調査したものである。ここに記されている穀物は米・麦・種麦類・粟・稗・蕎麦・もろこし・きび(黍)・大豆・小豆及び味噌であり、当時の農家のすべての食糧といってよい。崎房村の北新田坪と西新田坪との備蓄量をⅤ-4表に示した。
 
Ⅴ-4表 穀物備蓄高
穀    物    の    種    類
米     麦     類雑   穀   類豆       類
戸主名家族員麦米小麦大麦種麦類蕎麦モロ
コシ
きび大豆種大豆小豆種小
味噌
吉右衛門6人7俵(舂18俵)2俵
(42)
麦種2俵⑥1俵⑤2石8斗3斗2俵(45)1俵
(45)
18本
四郎左衛門7人
他2人
3俵14俵
6斗麦種2俵④4俵2斗
5升④
7俵⑧1俵2
斗④
1斗4俵④
味噌種共
*青大
豆1斗
5俵種
共(42)
4本
甚右衛門4人1斗
種共
麦種3斗5升6斗
種共
1斗5升2斗3斗種
味噌共
少々
作兵衛9人
他1人
2俵
7俵
4俵④
種共に
9俵⑥
種共
6俵④
餅共に
6俵2斗
4俵④
種味噌共
3斗5升
種共に
5本
太郎兵衛7人内2
人他出
麦種3斗4升
種小麦8升
1斗2斗3斗
種味噌
少々
太右衛門6人
他1人
5斗舂麦3
俵(45)
麦種1斗5升4斗9斗3斗4本
以恵 吉左
衛門後家
2人
内1人
穀 物 無 御 座 候穀 物 無 御 座 候穀 物 無 御 座 候
三左衛門6人
内2人
舂麦1
俵④
2斗2俵2斗
4俵④3斗種
とも
2斗6本
彦右衛門1人
他3人
2斗3俵⑦
種共に
6斗5升
餅共に
2俵⑥4斗
種共に
太兵衛4人
他1人
片付麦
7斗
1斗
5升
大麦種2斗3斗1石4斗2斗
種共に
5升
種共に
2本
半左衛門5人1斗
5升
3俵分⑦3斗1石6斗1斗2升
種共に
1斗2升
種共に
4樽
四郎平2人大麦種2斗2斗3斗5升2升3升1本
利右衛門5人1俵
馬の物
麦1俵④
9俵
1俵④3俵⑦2俵④4俵3斗
1俵
2俵(47)1俵④3斗6本
与右衛門3人3斗6升種
共に
1斗半樽
惣左衛門3人1俵
3斗5斗3斗3升5升1本
文左衛門8人
他1人
1俵
舂麦1俵
1俵
(45)
から麦1俵⑧1俵⑤4俵⑧1俵(47)5樽
文右衛門7人
他3人
3俵
(42)
つき麦
17俵④
1俵
(45)
4俵⑧種籾12俵⑧4俵⑤4俵⑧4俵(47)3斗13樽
治右衛門5人
内1人
3斗種
共に
2斗餅
共に
6斗3斗種
共に
1樽
又兵衛8人
内1人
7俵④
つき麦
大麦種1俵④1俵⑦2俵⑧2俵④2斗5升3樽
喜兵衛8人
他3人
5俵④
白米1
俵(38)
餅米1
俵(42)
つき麦
15俵
(45)
1俵(45)2俵⑤1俵
(45)
15俵
(45)
1俵
(45)
18樽
儀右衛門6人
内3人
1俵④つき麦
6俵④
3斗2俵⑦餅粟2
俵4
5俵⑦2斗3斗1斗6本
甚左衛門4人3斗6斗6斗7斗1斗1斗1本
利左衛門4人8升大麦種
4斗
3斗4斗2斗6升半樽
庄左衛門5人つき麦
8俵④
3俵④2俵⑧
種共に
5斗12俵⑧2俵④
種共に
2斗5樽
兵左衛門3人4俵④1俵④1俵④
種共に
1斗5升8俵⑦3斗2斗1樽
源兵衛4人4俵④1俵④
種とも
2俵④3俵⑥2斗5升5升1樽
半兵衛7人1俵④
種とも
1俵④
種とも
2俵
(35)
2俵
(75)
2斗5升
種とも
8升
種とも
半樽
茂右衛門1人1俵⑥
種とも
1俵④
種とも
1斗5升2俵⑥1斗5升1樽
伝左衛門6人2俵⑦1俵③1俵⑥2俵⑥1俵④5升1樽
孫 市4人4俵④1俵⑤1俵④5升2樽
助右衛門3人1俵⑧1俵③1俵⑧2斗8升1樽半
175人11石4
斗8升
搗麦55
石8斗
殼麦33
石3斗
11石4
から粟
12石
4斗
56石
8斗
5升
9石3斗3斗21石7升6石5升118樽
天保7年申9月12日「村中穀物改帳」崎房村北新田坪,西新田坪より作成.
④は4斗入り俵,⑤は5斗入り俵,⑥は6斗入り俵,8は8斗入り俵,(46)は4斗6升入り俵,(42)は4斗2升入り俵を示す.


 
 この史料で見ると穀物備蓄量に大きな差があることがわかるが、それは耕地の所有面積と相関関係にあるといえよう。また、麦と稗の量が他の穀物に比べて多く、当時の主食糧であったことを物語る。
 さて近世以降の主食は麦・粟・稗の飯が中心であって、それに大根・芋などの野菜を混ぜたマゼメシ・カテメシを食べていた。白飯を食べることができたのは、盆や正月などの祭りや祝いの時くらいで、人々はそれを楽しみにしていたようである。
 食事は日に朝昼晩の三食で、ヒルメシ(昼飯)は農繁期には屋外で食べることもあった。この他に農繁期にはコジハンまたはチュウハンと呼ぶ簡単な食事がとられていたし、農閑期にはヨワリシゴト(夜業)をしたので夜食も食べた。朝夕の食事の膳はハコゼン(箱膳)を用い、ハコゼンの中には茶碗、オテショ(皿)、箸、椀が入っており、朝食の場合は食後、茶碗に湯を入れて飲むと汚れがとれるので、洗わずに箱に入れて農作業に出たが夕食後に洗った。
 

Ⅴ-9図 イチコと箱膳

 副食物としてはその家の畑で取れた芋や胡瓜・ごぼうや茄子等とその漬物であるタクワン・白菜漬け・梅干しや干し納豆の自家製食物が殆どであって、特に漬物は当時から大事な副食物であった。なかでも白菜は取り入れた後に漬け込み冬から春にかけて食用にしたものであり、タクワンも大根を収穫してから二・三日間干して糠漬けして食べた。近世後期には魚屋や豆腐屋などの渡世人が、魚の干物や豆腐・油揚げ・こんにゃく・卵などを売り歩いていたので、それらを購入して食べていたようである。
 この時期の調味料といえば味噌・醬油・塩で、味噌は大豆を煮てムギコウジ(麦麴)を加えて作る自家製のものであり、崎房村の「村中穀物改調」の史料にみられるように殆どの農家で樽に保存されていたことがわかる。また、醬油は農民にとっては貴重品であったようで、多くは自家製味噌の澄み汁を用いたとみられる。しかし、近世後期には当地方にも醬油業を営む者も数軒あった(今井隆助『北下総地方史』)ので、こうした醬油屋から少量ずつ購入もしていたと思われる。