嗜好品については煙草・酒・にごり・お茶があった。これらは贅沢品と見られ、当時かなり規制されていたが、農民は少しずつでも嗜むことで貧しい生活に潤いをもたせていたと見られる。
当時の食生活は今日と比べたら比較にならない程貧弱なものであったが、しかし、村方にも酒や菓子をつくって売り歩く渡世の商人もいて、人々の食生活に大きな役割を果たしていたことも見逃すことができない。そこで、近世後期の食物を商っていた商人達の状況を見ると、たとえば鴻野山村・同新田の場合には、
暮六ツ限
居酒屋并豆腐屋 古田 八郎兵衛
暮六ツ限り
居酒屋 飾屋共 古田 仙次郎
右同断
居酒屋 新田 庄右衛門
小間物荒物穀物共 古田 斧二郎
豆腐屋 古田 彦左衛門
干いわし飴之類 古田 平蔵
(文政十三年「村方仕来書上帳」秋葉光夫家文書)
と六人の商人が酒・豆腐・穀物・干いわし・飴之類を生産・販売していた。さらに「天保九年猿島郡結城郡岡田郡五二か村農間渡世書上帳」(同家文書)崎房村の食品に関する渡世商売人をあげると、次のようになる。
居酒屋渡世 六人
米穀、塩商売 一人
穀商売 三人
蒸菓子、干菓子商売、茶商売 一人
豆腐、油揚商売 五人
豆腐、油揚、蒟蒻、青もの商売 一人
蒟蒻商売 一人
玉子屋商売 一人
油絞り商売 一人
醬油造 一軒
この他の村には魚・鳥商売や煮売もいて人々にそれら食品を提供していた。また当時、本石下の市で販売されていた食物をあげると、甘酒、青物、酒、にごり(濁酒)、まんじゅう、もちがし、からし、肴、たばこ、揚げ物、魚類等であり、かなり多くの種類にわたっていたことがわかる(「天保十四年下総国豊田郡本石下市場商人渡世向調帳」、新井清家文書)。