村氏神・村鎮守は、村の安全を守護する神として信仰され、村人共同の祭祀が執行されてきた。文政四年(一八二一)の栗山新田村「村鑑明細帳」には香取大明神が「惣村持」とされ(秋葉いゑ子家文書)、寛政二年(一七九〇)の本豊田村「当村 鎮守祭礼仕来書覚」には、大日如来・八幡宮・諏訪大明神・愛宕大権現が村鎮守とあり、大日如来が「仏供免田」として下田九畝と「祭免田」六畝五歩をもつほか、八幡宮以下の鎮守もそれぞれ下田六畝五歩の「祭免田」がある。そしてそれらの鎮守の祭りは十月六日、十一月の十五日と二十四日に、別当寺院、名主・組頭・年寄などの村役人立会のもとで行なわれると記載されている(篠崎育男家文書)。また本石下村文化五年(一八〇八)の「村差出明細帳写」によると、牛頭天王・八幡・愛宕の三社が「本石下村中石下村総社」とある。
こうしてみると、近代初頭の神仏分離、さらには神社合祀が行なわれた以降の一村一鎮守制とは異なり、村の安全を守護し、村人共同の祭祀が行なわれる神仏が近世期における鎮守であったとみることができよう。さらには栗山新田や本石下村の鎮守名から推察すると、石下町町域で祀られていた鎮守は、他地域に本社がある勧請神が支配的であったといえるとともに、「村差出明細帳写」の「本石下村中石下村総社」という記載は、町場であった石下が支配の単位としての、村を超えた一体性をもっていたことを示している。
鎮守の祭りには、一般的にみて二系統がある。一つは都市に発生し、夏期に蔓延する疫病などを防ぐための夏祭りであり、他方は農村において発展してきた春秋の祭りである。もっとも近世の農村においては、勧請神が支配的であったと同じように、夏祭りと春秋の祭りとの二系統の祭りが行なわれている。本石下村の「村差出明細帳」にみる五月十五日、六月十四日、十五日の牛頭天王の祭礼が夏祭りであり、正月と八月の十五日が祭日である八幡、正月と九月二十四日に行なわれる愛宕の祭りが春秋の祭りであるが、十一月に行なわれる本豊田村の祭りがより古風な習俗を留めているといえる。しかし夏祭りと春秋の祭りとでは、その祭祀形態に相違が認められ、春秋の祭りが「御供上ケしめがけ幣帛上ケ申し候」とあるのに対して、牛頭天王の祭りが「神変(輿)は六月十四日出十五日入」「神馬の儀は名主八右衛門差出し申し候」とあるように、行列をつくって村内を巡幸する形態がとられていた。いわば春秋の祭りが静的な祭りであったのに対して、夏祭りは動的な祭りであると称することもできよう。
このほか、祭りの入用の点では、牛頭天王の祭りの「五月銭二十四文づつ、六月三十二文づつ村中出銭」とあるように、軒別に出資する場合と、「祭免田」のように神田・祭田をもち、その収益によって祭の費用を賄う場合とがあった。