農作業の折目折目にその作業の無事終了の報告と感謝、作物の豊饒を神仏に祈願をする祭事が行なわれてきた。むしろ、農業の区切りごとに行なわれるこうした行事の方が古いもので、暦の普及によって、次第に定まった暦日に行なわれるようになったのである。そこで近世後期の「村方仕来り」や「休日取り調べ帳」などの史料と、民俗伝承をもとに当時の農業に関する祭事や、農休みについて述べることにする。まず年頭に来るべき一年間の主として稲作・麦作の農作業の無事を祈り、その作業の模擬儀礼や占いをすることが、既に近世後期には行なわれていた。当町域でも正月三日から十一日ころにクワイレ(鍬入れ)といって、自分の田畑にいって注連飾りをした松を立て米や塩を供え、鍬で畝立てをする農事初めの儀礼を行なってきている。小正月十四日にはアズキガユといって小豆の粥を作りヌルデの木の箸で食べたり、笹神を祭って豊作を祈ってきたものである。
初午にはスミツカリと赤飯を藁つとに入れ稲荷様に供え、稲の豊饒を祈願してきた。三月上旬、天の神に天候の順調を祈って天念仏を唱えた。四月八日は一般に薬師様の祭りであり、弘化元年の「遊日定帳」(崎房村)に「農業正月一日」と記されているところから、神仏を祭り供物を供えて仕事を休んだようである。田植えを二、三日後に控えた五月五日の節供は、古くは忌み籠りする日と考えられていた。
稲の種蒔きと田植えは農民にとって大切な作業であったもので、それが終わると、神祭りをして稲苗の成長を願い、その仕事に従事した人々を慰労した。文政十年(一八二七)の左平太新田の「村方仕来并職人商人家数名面調帳」には「一、其の年の節により田方種蒔き并植え付け相済み候えば、村方一統見祝いとして一日つつ両度休日致し候事」と、種蒔きの祝いと田植え終了の祝いを村の仕来りとしていたことが記されている。この種蒔き祝いは、水口に幣束や残り種の焼き米を供えて種の発芽・発育を祈願したものである。一方田植え仕舞の祝いはサナブリといい、個人の田植え仕舞の家サナブリと村の大方が終わっての村サナブリがあった。「覚帳」でサナブリの時期を見ると、天保八年は半夏の七日後、同九年は五日後、同十年は三日前、同十一年は七日後、同十二年が一日前になっていた。その天保十年と十二年には「さなぶり」と「さなぶり正月」の二つのサナブリの記述があるが、前者は家サナブリであり、後者が村サナブリを示しているとみられる。家サナブリの場合、家の田植え仕舞に苗一束(サナブリ苗)をきれいに洗って赤飯と共にお膳に乗せ、お釜様やえびす様に供えたことが習わしである。小保川地区の伝承では、サナブリ苗に稲の花がよく咲くようにと小麦粉を振り掛けて神棚に供えたというし、東部地区の場合サナブリ苗に酒をかけてそれを米びつの上にそなえたといういい伝えもある。国生ではこの夜田植えを手伝ってくれた人を呼んで、酒・肴等で遇したものであるという(町史編纂室調査)。
村サナブリは、村の大体の農家で田植えが終わったころを見計らって、村役が農事休みの触れをだした。
「覚帳」には田の草取の時期に何度か「正月」の記事がある。天保九年の場合サナブリのあと七日から八日目毎に正月が三回記されているが、これらは村の臨時の休息日であり遊び日であったようである。
節分から数えて二一〇日と二二〇日目には風祭りをして、この頃やってくる台風の被害がないことを神仏に祈願してきた。文政十三年(一八三〇)の鴻野山村の「村方仕来書上帳」をみると「二百十日、二百二十日 右両日惣村中にて大杉はやし致し村中より神酒代差出し其の上常州安波大杉殿へ村中として代参弐人差し立て来申し候」とあるように、大杉囃子を囃し大杉様の本社である、稲敷郡阿波(現桜川村阿波)の大杉神社に代参を立てて、風雨順調と豊作を祈ることがなされていた。
稲刈り仕舞にも各家で簡単な祝いをした。伝承によると若宮戸では、その日カッキリアゲといって変わりものを作り神に供え家族で食べたというし、上宿でもカッキリ団子、岡田では小豆入りの粥・カッキリカユ、国生や蔵持、向石下でも団子を小豆粥に入れたカッキリガユを作り、神仏に供え食べて刈り取りの無事と収穫を作神に報告感謝した。また、当地方ではイノコ(亥の子)とかオイノコ(お亥の子)、トウカンヤ(十日夜)といって、十月十日に餅をついて田畑の神に供える祭りも行なわれていた。
畑作の儀礼では八月十五日の十五夜に団子や赤飯・すすき・栗・柿を十五夜の月に供えて、子供たちが巻き藁を持って村内を歩き、各家の庭を「大麦小麦で三角畑の藁麦あたれ」と唱えながら叩き、地の神に豊作を祈る行事もあった。また、麦蒔きが終わるとうどんやそばなどの変わりものを作って神仏に供え食べたという。