ハレの衣服

542 ~ 543 / 1133ページ
さて、晴れ着は祭りや御祝儀・葬式などのハレの日に着る礼装で、これを着ることによって威儀を正したものである。一般的に男子は黒の紋付の着物に袴で、祭りや御祝儀、葬式にはこの上に羽織を着て臨んだ。正月や節句など家の祭りには少し略して、紋付きの羽織か仕立ておろしの絆纏や、単衣ものなどの着物を着たものである。とくに盆まつりには浴衣、筒袖の単衣の新しいものを着ることが習わしであり、人々の楽しみでもあったという。
 葬式や御祝儀(結婚式)の参加者は女性は白無垢を、男性は紋付きの羽織に袴を着用した。花嫁衣装は島田に結った髮に綿帽子を被り、白無垢の着物を重ね着て草履を履き、花婿は黒の紋付きに袴を着用するのが一般的であるが、階層や時代によってかなりの違いが認められる。例えば小農民の下層の花嫁は模様染めの着物、花婿は紋付きだけか新調の着物といった具合で、質素なものであった。
 ここで死者の衣装についても簡単に触れておこう。死者には湯灌のあと新しい着物を着せるが、これをシニショウゾク(死装束)という。この装束は特に近所の女性たちが、晒木綿を鋏を使わずに切り割き、経帷子と頭巾・手さし・脚半を縫い、糸尻をつけないことになっていたという(藤田稔『日本の民俗・茨城』)。
 庶民の衣服を述べてみたが、仕事着・普段着は殆どが自家製であった。しかし近世中期以降には衣類の商品流通も盛んになってきた。その一例を天保十四年(一八四三)の「下総国豊田郡本石下市場商人渡世向調帳」で見ると、本石下村の市日に、仕立物、木綿類、下駄、古着、足袋などの品物が売られ、その他髪結い・かがみ研もいたことがわかる。また、当地方にも古着屋や仕立て・木綿類を渡世とする商人や職人がおり、当時の人々の衣生活の向上に貢献していたと考えられる。
 その一方では幕府や領主側から、農民の衣服生活に対して厳しい規制がなされた。