本寺と末寺

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信長の比叡山焼き打ちは、寺院勢力が力を失っていった象徴的な事件であった。その後の秀吉・家康も寺院の支配・統制には相当の努力を払うことになった。全体としては、戦国末期から近世初期にかけて、権力者の圧力によって、寺院勢力はその力を急速に弱めていったが、それでも、ある程度の寺領を有し、地域の権威として存在した寺院も少なくなかった。したがって徳川幕府にとっても、寺院の支配・統制は重要課題であったといえよう。
 一方、各地域で活動する寺院僧侶たちは、一般民衆との関係を密にしていったし、各地の中心寺院からはその周辺の小寺庵に、地域民衆の要望もあって、門弟たちが送り込まれるようになっていった。こうしたなかで、各地の有力寺院の支配・統制も必要であったが、それとともに、各地に活動する僧侶や、中小の寺庵の統制も重要な課題であった。
 幕府は各宗派の頂点に立つような寺院や有力寺院に「法度」を下し、それを、末派寺院に配布させることにより、本山あるいは触頭としての資格を与え、権威付けを行なった。また各地域の有力寺院や歴史を持つ由緒寺院には、それまで保持してきた寺領を容認し安堵する朱印状を与え、保護を加えることにより統制下に置いたのであった。このようにして、幕府により、権威付けられた本山・触頭・各地の有力寺院のいずれかに、すべての寺院は末寺として連ならなければ、寺院として成り立っていかないような方法をとったのである。
 それは、本寺の許可がなければ住職になれないとか、僧階が上らないとかいうように、さまざまなことで末寺にとって不都合が起こるようになっていた。このように全国の寺院を本山・本寺と末寺の関係におき、本山・本寺に末寺を統制させるという制度を本末制度というが、この制度によれば、幕府は本山や有力寺院を把握しさえすれば、全国の寺院を把握できることになる。
 石下町域内の寺院も、江戸期には、いずれかの寺院を本寺とし、寺院によっては末寺を有したのである。石下町域内寺院の江戸期の本末関係はⅤ-17図のようである。
 

Ⅴ-17図 石下寺院本末関係図(●印は石下町域内寺院)(1)


Ⅴ-17図 石下寺院本末関係図(●印は石下町域内寺院)(2)


Ⅴ-17図 石下寺院本末関係図(●印は石下町域内寺院)(3)

 幕府主導のもとで最初に本寺・末寺の関係を記した「本末帳」が作成されたのは寛永九年(一六三二)から翌年にかけてであるが、この本末帳は完全なものではなかった。それにこの時点では本寺・末寺関係も固定していなかったから、たとえば、時宗の豊田長照寺や若宮戸常光寺は寛永の「本末帳」では、同宗の本山である清浄光寺すなわち藤沢の遊行寺の末寺として記載されているが、天明八年(一七八八)に成立した「本末帳」では、Ⅴ-17図のように長照寺・常光寺の両寺ともに、清浄光寺の末寺の末寺として記載されているのである。しだいに本寺・末寺の関係が明確にされ、厳しく序列されるようになっていったことを物語っている。