新田の開発と寺院

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幕府領となった多賀谷六万石と結城領・山川領を支配した伊奈忠次は、慶長年間(一五九六~一六一五)に鬼怒川と小貝川に挟まれた氾濫原や低湿地、すなわち谷原(ヤワラ)の開発を行なっている。これらの谷原は常陸谷原・豊田谷原・相馬谷原などと称されていた。この開発についてはすでに述べたので、詳しいことはそれに譲ることにするが、常陸谷原(常陸とあるが、鬼怒川と小貝川の間の湿地)の開発では譜代の下人を持ち大経営を行なっていた名主の増田大学、結城氏の家臣であったという小口主計、国生の二郎右衛門、館方新田の三郎右衛門、鎌庭村の新田である小保川村の開発を行なった飯島玄蕃吉久などの有力農民に開発させるというものであった。慶長十三年(一六〇八)三月十五日には谷原の開発にかかった有力農民たちに、開発の賞として、心労分として、屋敷分を免除するという内容の文書が伊奈忠次から出されている。増田大学は屋敷分一町歩の税が免除され、小口孫兵衛は一町歩を免除、館方新田三郎右衛門も屋敷分一町歩、国生の二郎右衛門も屋敷分五反歩、小保川村の飯島玄蕃も屋敷分一町歩の税を免除されているのである。
 これらの有力農民たちの慶長年間における開発に関してはすでに述べたとおりであるが、この開発には有力農民ばかりでなく、寺院も加わっている。原文書は現存しないので正確にはわからないが、新井省三編著『趣味の結城郡風土記』に、慶長十三年三月十五日付の「高柳原坊」宛の伊奈忠次の書状が掲載されている。「ひたち屋わら」の新田開発の賞として、「高柳原坊」に対して「屋敷分屋わら」三反歩の税を免除するという内容の書状である。『趣味の結城郡風土記』に掲載されている、明治七年十月日付で戸長新井五郎左衛門等が千葉県知事に宛た文書によれば、谷原の開発に参加した「高柳原坊」とは妙見寺という寺院の住職であって、その後は谷原の三反歩は除地として税が免除され、妙見寺領として存続したことが知られる。なお、この妙見寺は天台宗寺院で普門寺(現下妻市)の末寺であったが、明治四年に廃寺となっている。石下大橋の近くの妙見橋は同寺の名に由来するといわれている。また妙見橋の近くの大房の東弘寺の山号が「高柳山」である。おそらくこの山号は、このあたりの地名からとったものと考えられるから、このあたりが「高柳原」と称されるところであったのだろう。「高柳原坊」という名もこのあたりの地名に由来するものであり、高柳原の坊(草庵)に住む僧侶という意味からの名ではなかろうかと思われる。
 ところで、「高柳山」の山号を持つ東弘寺であるが、寺伝によれば、同寺は、もとは蔵持の大高山にあったが石下に移転し、近世のはじめに(一説には天正二年あるいは慶長年間)大房の現在地に移ってきたといわれ、またこのあたりの開発と密接な関係にあったといわれている。正徳五年(一七一五)十月に東弘寺より増田治兵衛宛に差出された「口上」書(増田務家文書)にも、蔵持の大高山から石下へ移転し、正徳五年当時の住持から数えて五世代以前の住持の時に大房村の近辺を開発し、現在地に移転してきたことが記されている。妙見寺廃寺の近くにある大房の東弘寺には、「谷原」の開発に関する史料こそないが、高柳原の開発に深くかかわっていたことが考えられるのではなかろうか。