禅宗寺院の過去帳

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寺院の過去帳には檀家の家族の戒名(法名ともいう)と死亡年月日や俗名が記されている。宗門改帳や人別帳が保存されていれば、住民の名や構成がわかるのであるが、江戸初期から保存されている場合はきわめて少ない。よって、どのような名の人物が住んで死んでいったのかを知るには、過去帳に頼らざるをえないのが現状である。ただし、人権擁護の立場からその利用については慎重を期さなければならない。
 まず、本石下の興正寺の過去帳からみてみよう。同寺の過去帳は日捲式(日めくり式)で、書体から判断すると元文年間(一七三六~四一)に書き改められ、それ以降、書き加えが行なわれていったことが知られる。この日捲り式過去帳が成立する以前に、古い当座式過去帳があったものと思われる。この日捲り式の過去帳を、当座式の過去帳の形式に整理しなおす方法で、分析を試みることにしたい。
 
Ⅴ-5表 本石下「興正寺過去帳」村別戒名数変遷表


宿


宿


宿








西











宿








宿















1600 以 前235
1601~161011
1611~1620112
1621~16301113
1631~1640111115
1641~16506121111
1651~16605312112117
1661~167013424231322111140
1671~1680121065324854125162231698
1681~1690179121264554517826512112
1691~1700121613891312141111538615138
1701~17103623717234181772261254234210
1711~1720233191821451720111271541132142229
1721~17302221415131101566171561393117185
1731~174037286143422929722618374265261
1741~17503320432272226228731911194223236
1751~17603335623171116268426245128114251
1761~17703641210211211241221246572521215
1771~17803821518252122115191326972911220
1781~1790193041627111627831526488111122221
1791~1800219211112158711010426113124
1801~181034234947124221421783981243239
1811~182025259624172133131457225181
1821~18303132511171301516516133314418218
1831~18403118521321128178316109441636224
1841~1850331741220221963171639627199
1851~1860393051235312618121241021044252244
1861~187031201930261713952013652532194
年 未 詳11132122452121153
合  計602
274
469
232
124
63
287
151
450
197
23
12
47
6
382
189
348
171
172
77
56
25
383
176
259
110
2
2
78
37
151
78
103
50
28
14
14
4
1
1
69
25
19
10
17
9
88
35
4172
1956
合計欄の下段は女性


 
 新井五郎左衛門の祖という人物が弘治二年(一五五六)七月二十四日に、その五郎左衛門が元亀三年(一五七二)十一月九日に死去していることが記されているが、それをのぞくと慶長四年(一五九九)に死去した吉原八右衛門の先祖(四月二十八日没)や、その妻(二月八日没)などが記載されているのが最初である。いずれものちに院号が付され、四字+禅門であったのが四字+居士に改められていることをみると、村の有力者たちの先祖であり、当時から村の有力者たちであったとみてよかろう。同寺の戒名の記載は当初散発的であったのが、寛永十六年(一六三九)ごろからは、少しく継続的に記されるようになり、承応三年(一六五四)以降は毎年の記載となり、二~三人の戒名が記されるようになる。
 寛文三年に六人を数え、それ以降は五人前後の戒名が記されるようになり、大きな画期を示している。それは、「興正寺過去帳」を一〇年毎に整理して作成したⅤ-5表の合計らんをみても、一七人から四〇人と急増していることからも理解できよう。さらに寛文十一年(一六七一)には一二人、延宝四年(一六七六)には一八人の戒名が記されるほどになり、元禄四年(一六九一)にも一八人、同七年にも一八人、同十年には一九人を数えている。
 宝永六年(一七〇九)には四三人もの戒名が記され、この前後より、一年に二〇人前後の戒名が常に記載されるようになっている。そして、一七二一~三〇年の一〇年間では一八五人とやや減少するが、一七三一~四〇年の一〇年間では二六一人の戒名が記され、本過去帳では最高の数を示している。また、享保十五年(一七三〇)には一年間で四二人を数え、一年間では最高の数を示しているのである。
 寛永十六年(一六三九)ごろ、寛文三年ごろ、延宝四年(一六七六)ごろ、元禄四~十年(一六九一~九七)ごろ、宝永六年(一七〇九)ごろ、享保十五年(一七三〇)ごろに画期がみられ、有力農民ばかりでなく、しだいに一般農民の戒名も正確に記載されるようになっていったことが知られる。興正寺は中世以来の禅宗寺院であり、石毛氏の菩提寺として知られるが、江戸期には、上層農民から一般農民へと檀家の層を拡大していったことが知られるのである。また、檀家は中宿・下宿・上石下・西原・松葉・新石下など、同寺の近隣の村に多かったことが知られる。なお、三坂では早くから十右衛門家、のちに市良兵衛家が檀家になっているようであり、いずれも四字戒名で有力農民のようであるが、その他の家を檀家とすることができなかったようである。
 つぎに本豊田の竜心寺の過去帳についてみてみたい。同寺の過去帳は、寛永十六年(一六三九)の記載からはじまるいわゆる当座式であり、編年体で記述されているが、巻頭の記述によれば、天文年間(一五三二~五五)からの過去帳が代々存在したが、「城主落城」の際に紛失してしまったという。そして、寛永十六年から記載がはじまるわけであるが、それ以前に、十二支と月日のみしか記されていない戒名が二二九も存在する。これらは寛永十五年以前に没した人々の戒名である。おそらく近世初期の戒名であろう。これらの戒名の内訳はつぎのようである。
 
  二字+童子〔例えば「露心―(童)子四月」〕           三人
  二字のみ〔例えば「秋吟卯八月十五日新田木工左衛門下人」〕  八五人
  二字+禅門(尼)〔例えば「道寒―(禅)門 曲田外記事也」〕  八三人
  二字+禅定門(尼)〔例えば「道白禅―(定)門椎木与五兵へ父」〕  二四人
  四字のみ〔例えば「南窓妙貞本田与右衛門母」〕        三一人
 
 戒名二字のみの人びとは、おそらく二字+禅門(尼)を略して記したものと考えられるので二字+禅門(尼)の数は一六八人の多くを数えることになる。二字のみの戒名や二字+禅門(尼)の中には(二例だけ二字+禅定尼で下女がある)、下人・下女・内之者・内男・家来などと付された人びとがいる。それはつぎのようである。
 
  1(二字+禅門)  新田助左衛門下人
  2(二字+禅門)  善兵衛内男
  3(二字+禅定尼) 椎木左太郎下女
  4(二字+禅定尼) 北宿助右衛門下女
  5(二字のみ)   新田杢右衛門下人
  6(二字のみ)   本田武兵衛家来
  7(二字のみ)   新田茂右衛門供養者也<「三看禅門」で1と同一人か>
  8(二字のみ)   椎木左太郎内者也
  9(二字のみ)   新田助左衛門内之者也
 
 このような下層の農民たちも存在した。また
 
  (二字+禅尼)  椎木玄番
  (二字+禅門)  曲田外記事也
  (二字+禅定尼) 新田大膳女房
 
玄番・外記・大膳と武士的な名を持つ人物が注目されるが、戒名下文字自体は、下人・下女などとかわらない。
 四字戒名の場合は、おそらく四字+禅門(尼)(あるいは四字+禅定門(尼)か)であると考えられるが、付記がみられるのは、つぎの人びとである。
 
  本田右衛門母
  新田監物
  本田次左衛門姉
  本田平右衛門女房
  当寺先住弟子
  新田与作
  本田善之丞妻
  亀島高田氏
  椎木七右衛門
 
 このほかに、没年(十二支のみ)月日以外の付記がみられない戒名が二三であるが、これらの四字戒名の人びとの多くは、近世初期における上層農民たちであったとみてよかろう。
 さてこのように、おそらく慶長・元和・寛永年間には、すでに上層農民から下層農民にいたる人びとに対してまで葬儀を行ない、戒名を授与していたことが知られるが、過去帳が作成され、葬儀のたびに戒名・没年月日・俗名が記されるようになるのは寛永十六年以降ということになる。戒名の記載数の変化について、Ⅴ-6表を参照しながらみていくことにしたいと思う。それまで六六人から七二人であったのが、一六六一~七〇年では九八人に増加している。実際に寛文三年(一六六三)には一年間で一六人の戒名を記載している。一六九一~一七〇〇年では一八六人と増加しているが、元禄八年(一六九五)には一年間で二六人の戒名が記されている。さらに、一七一一~二〇年では二三四人と増加し、正徳四年(一七一四)には三二人の戒名を記している。一七四一~五〇年では二九二人を数えて最高に達しておる、また延享二年(一七四五)には一年間で四九人を数えており、本過去帳では最高数である。
 
Ⅴ-6表 本豊田「竜心寺過去帳」村別戒名数変遷表




宿


宿




































1639~16403411119
1641~1650141110244122766
1651~166013211927161272
1661~167033931231335898
1671~16809141554112271112118
1681~1690132611562218123125
1691~17002534118512082431118186
1701~1710197130961271389211
1711~172013632686161161621211215234
1721~17301514913512351844220712224
1731~17404493548276262341172218235
1741~175060913651134649110817292
1751~1760417115610484931821624267
1761~17703684130153228110121169
1771~178032651161104612613313209
1781~179091130726310451822113316241
1791~1800118269421031124452414123206
1801~18106211810113215208155121156
1811~18204852131121324629114214166
1821~18303531215131619152051718310156
1831~184012851841317622423107611437198
1841~18501022785231112699124121618146
1851~18542913124382213243
合  計443
214
123
49
213
100
48
23
5
2
7
3
140
73
607
299
410
109
99
48
355
186
4
2
17
4
37
17
10
4
42
18
105
56
491
238
56
28
12
8
51
19
21
11
246
120
51
19
48
23
1
 
3
1
1
 
13
 
181
85
3840
1849
合計欄の下段は内数で女性


 
 竜心寺は興正寺と同様に曹洞禅宗の寺院であり、多賀谷氏によって豊田城近くの新宿に建立された寺院であるが、近世初頭より上層農民から下層農民・下男・下女等にまで葬儀を行ない、寛永十六年以降に過去帳を新たに作成して、しだいに檀家数を増加していったことが知られる。また、当村、新宿、新田、椎木、新田上、新田下などに多くの檀家が存在したことが知られる。