天台宗寺院の過去帳

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向石下の法輪寺は「過去帳」によれば、向石下畑中の城主であったという、館武蔵守宣重の菩提寺であったといわれている、天台宗寺院である。同寺の「過去帳」は日操式で、書体から判断すると正徳五年(一七一五)ごろに作成され、それ以降書き加えていったものと考えられる。日操式なので興正寺の過去帳と同じように編年順に整理しなおす方法をとり、考察を試みたいと思う。
 
Ⅴ-7表 向石下「法輪寺過去帳」村別戒名数変遷表




西








































1641~165011522314
1651~16601362113
1661~167011322110
1671~1680389111638
1681~16907122231221160
1691~1700152455331013141
1701~17101534723312513175
1711~17202031179114120416205
1721~1730213636623069111185
1731~17402133547910321213313207
1741~175013382812401819204
1751~176013131596164161631213271
1761~1770251533274725814911112236
1771~178013723916753238101111412225
1781~1790133304672146586185
1791~180022915142661286111216193
1801~181011261824515812114125178
1811~182011861625333157122164
1821~1830111722153137101119164
1831~1840391345568514312222
1841~185025114623471814193
1851~186022972250514114153
1861~18701352161586398202
1871~18807251072437
1881~188211
合  計15
1
278
142
282
138
419
242
51
27
1203
668
28
13
8
6
6
2
881
470
210
111
110
58
6
1
5
4
4
1
2
1
2
2
2
1
2
 
1
 
2
1
15
7
154
97
3676
1993
合計欄の下段は内数で女性


 
 寛永二十一年(一六四四)以降、過去帳に記録していったことが知られるが、それまで、一年間に一~三人であり、断続的であったのに対して、延宝四年(一六七六)以降は四~六人でしかもコンスタントに記載されるようになり、延宝八年には一年間で八人が記されている。元禄四年(一六九一)には二一人が記載され、正徳三年(一七一三)には三〇人、享保二年(一七一七)には三五人が記載されている。そして、Ⅴ-7表最右行にみられるように一七五一~六〇年が二七一人を数え、最高数を記録しており、宝暦七年(一七五七)には一年間に三六人を数えて、最高数を記録している。同寺もまた、寛永二十一年以降、延宝四~八年ごろ、元禄四年ごろ、正保三年ごろ、享保二年ごろ、宝暦七年ごろと、いくつかの画期をへて多くの葬儀を行ない、戒名を記載するようになっていったことが知られる。
 なお、Ⅴ-7表に示されているように、同寺の檀家は杉山が圧倒的に多く、ついで篠山・畑中・西館・向石下・峯などに多い。
 千代川村皆葉の無量院は石下町内にも多くの檀家を持つ天台宗寺院である。同寺の過去帳は、江戸期のものは四冊あるが、いずれも日操式である。第一冊目の過去帳によれば、貞享元年(一六八四)十一月に三〇世亮海によって作成されたものを(「過去帳」序文)、安政五年(一八五八)に如真という人物によって書き改められたもののようである(同上)。日操式なので、興正寺や法輪寺と同様の方法により、整理しなおして考察を加えてみたいと思う。
 
Ⅴ-8表 皆葉「無量院過去帳」村別戒名数変遷表













































西































1591~160011
1601~161011
1611~1620
1621~1630
1631~164011
1641~1650
1651~166011
1661~167033
1671~1680111148
1681~16901523115222250273823119202
1691~170016976221935119061721144358
1701~171027081455116261611712991172681081238475
1711~17201563391351914534269812127811092221134531
1721~173011161222823421212479113115496
1731~1740113835633151317410914226112116695
1741~17501120431562452417878113521597
1751~176015711164375271820210514512323738
1761~1770103282233178114183284112217110601
1771~17802105111513944181911658622120540
1781~1790313615149556201787992211514603
1791~180019531301373130516727127411
1801~18108311239216212036074723549424
1811~182018133164121661615181171214442
1821~1830851112056114211455491158387
1831~18403611211064281461093013267756111125164478
1841~1850160513122181567133016514432343
1851~18604512148212320122963628519404
1861~18706725457944258753374111379
不  明4212173243111012211840159
合  計127
45
1640
768
22
13
1
 
34
14
25
14
48
22
47
19
51
26
2
1
3
1
649
296
38
9
77
30
2
 
109
46
1
1
7
 
140
71
2546
1206
92
46
81
36
88
42
1313
631
1626
781
27
11
81
37
12
3
3
1
1
 
15
2
1
 
6
0
73
34
9
3
20
10
46
16
216
91
9278
4319
合計欄の下段は内数で女性


 
 慶長四年(一五九九)より記載があるが、延宝七年(一六七九)までは散発的にしか記載されておらず、定期的に記載されるようになるのは、天和三年(一六八三)に六人を記録して以降であるが、二年後の貞享二年(一六八五)には一年間に三三人を数え、それ以降が本格的な記載ということになる。その後も、Ⅴ-8表にみられるように一〇年毎に増加させている。一六八一~九〇年が二〇二人、一七〇一~一〇年が四七五人、一七三一~四〇年が六九五人、一七五一~六〇年が七三八人を数えており、注目すべき一〇年間である。画期的な年をあげれば、元禄五年(一六九二)には四三人、宝永三年(一七〇六)には七七人を数えている。その後では、享保十八年(一七三三)には九八人、元文五年(一七四〇)には一二三人を数えて、江戸期における最高数を記録している。
 Ⅴ-8表の合計をみれば理解できるように、無量院の檀家は崎房に圧倒的に多く、ついで同寺がある皆葉、ついで国生・鴻野山・五箇に多く、石下町域の各村に多い。
 以上、四か寺の過去帳をみてきたが、興正寺の戒名がきちんと記されるようになるのが、寛永十六年以降であり、竜心寺の過去帳も、寛永十六年から本格的な記載がはじまる。これらのことは関連しているとみてよかろう。そこで、各過去帳の画期をなすような時期を全体としてみると、①寛永十六~正保元(一六三五~四四)ごろ、②寛文三年(一六六三)ごろ、③寛文十一~延宝四年(一六七一~七六)ごろ、④元禄四~元禄十年(一六九一~九七)ごろ、⑤宝永三~享保二年(一七〇六~一七)ごろ、⑥享保十五~十八年(一七三〇~三三)ごろ、⑦元文五~宝暦七年(一七四〇~五七)ごろの合計七つの画期を経て、寺院と檀家の関係が村のすみずみまで貫かれるようになったといえよう。なお、一八世紀に入ってからの画期には、村全体の人口の増減も関係しているものと考えられる。