元禄文化は上方を中心とする文化で「庶民の文化が日本の文化を代表する時代」(家永三郎)ではあり、文化文政の文化は江戸文化であり、「その創造の主体が民衆自身となり、いっそう民衆の中に深まり広まった」(青木美智男)時代であったという。それらの所論を裏づけるように、当地においても、俳諧、狂歌の秋場雪窓、俳諧歌の増田素柳のような指導的役割を果した人をはじめ、多くの同好者が生れた。次にその概略を述べてみよう。
貞享四年(一六八七)には松尾芭蕉が、門人曾良、宗波を伴ない、鹿島根本寺の住職仏頂和尚を訪ねて来ている。俳句「月早し梢は雨を持ちながら」はその時の句といわれている。
与謝蕪村は、江戸における俳諧の師早野巴人が没すると、同門の俳人砂岡雁宕(いさおかがんとう)を結城に訪ねて、寛保二年(一七四二)二七歳の時から約一〇年間滞在し、常陸、下総、下野等の俳人達と交友を重ねた。また、小林一茶が、守谷西林寺の住職義鳳上人(俳号鶴老)を訪ねて来たのは、一茶が四八歳の時文化七年(一八一〇)六月のことである。下総には、一茶の門人達が多く散在していたが、来遊の北限は概ね守谷まででそれ以北には来遊していない。
以上のような、日本の俳諧史に名をとどめている人々と、当地方との直接のかかわりについては記録に残っていないが、鬼怒川文化圏の枢要な位置にあった当地には、間接的には何がしかの関わりはあったものと思われる。
ただ守谷の化六庵鶴老に一茶を案内して来たといわれる桜井焦雨は、水海道まで足をのばし、三坂新田の猪瀬好古(秋葉猗堂の父)が焦雨の門人で深い交遊があったということであれば、あるいはこの縁で郷土人との接触が全然なかったとはいえないかも知れない。
桜井焦雨は、俳系からいえば、芭蕉の流れを汲む伊勢風の俳人で、信州の富豪であったが俳諧に熱中し、家業を顧みず江戸に出て江戸俳壇でも注目され出した人だといわれている。文政期には勢力地盤が下総に及び、ついに水海道まで足をのばしたのである。蕉雨は、文政十二年(一八二九)五五歳で没した。
天保以後はやはり芭蕉門伊勢派の流れをくむ守村抱儀や、孤山堂卓朗等が当地方俳壇の指導的役割を果したらしい。
抱儀は、巨富を擁する蔵前の札差で、各般の道に通じた人であったが文久二年(一八六二)五八歳で没した。卓朗は、江戸の俳人、児島大梅門下の逸材で、両国に住んでいたが、嘉永二年(一八四九)には北総に来遊、大生郷の坂野耕雨を訪問し、馬場の秋葉雪窓や向石下の増田素柳とも、かなり深い接触があったらしい。雪窓や好古はまた郷土を代表する抱儀の門人であったともいわれている。