秋葉雪窓

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俳諧と書をよくし、また狂歌にも手をそめた秋葉雪窓(一七九二~一八六三)は、素盟とも号し、寛政四年岡田郡馬場村に秋葉源次郎の子として生れた。文化のころ江戸に出て書や俳諧等を学び、帰郷してその道を楽しんでいた。
 飯沼馬場の北部地区に鎮座する、天満宮境内の大銀杏の側に堂々たる句碑が建っている。碑の正面には、雪窓の次のような句が刻されている。
 
    星高久(く)花由(ゆ)さ/\と明耳気理(あけにけり)
                友楽処  雪窓居士
 
 裏面には、おそらく代表門人の句であろう次のような句が刻まれている。
 
    空色耳(に)見栄へ乃(の)つ久(く)や遠柳           三郎
    宵闇能(の)あ个伝(けて)頼母し梅の花            桑弓
    声可(か)るし茶の木者多希能者(はたけのは)つ雲雀      氷壺
                        文久四甲子年弥生 赤松 星橋
 
いずれも格調高い句である。
 

Ⅵ-1図 秋葉雪窓 綺堂邸(秋葉節氏提供)

 雪窓は文久三年に没しているから、この碑は、雪窓死歿の翌年三月門人達によって建てられたものであろう。
 句碑の手前右側に豪壮な「盥手盤(がんしゅばん)」(手洗鉢)がある。その手洗鉢の右側面には、願主として小沢倉治、長塚太重、浜名兵之丞、近藤市松の名があり、左側面には「秋葉素盟門人」として赤松平治郎、野沢久米吉、坂本孫治、坂入伊之吉、関万吉、阪本常三郎、猪瀬政之助、赤荻秀松、小竹亮輔、小竹保蔵、人見貞吉、佐原与能女、長塚徳蔵、飯野運蔵の名がある。裏面には、関伊代女、小林文子、秋葉真勢女等女流俳人を含む三四名の名が刻まれている。文政十年(一八二二)十月二十五日の建立とあるから、もちろん素盟師生前の寄進であり、句碑に「友楽処」とあるところをみると、この天満宮に集まっては、先ず「盥手盤」で手を浄め、社殿または境内で、折々に素盟師を囲んで句会を楽しんだものであろう。当時の古文書によると、天満宮の拝殿は、二〇畳敷の広い室であったらしいから「友楽処」の名の示すとおり、ここに集っては句作を楽しみ、女子をも交えた勉学と遊楽の社交場であったものだろう。なお、門人達の姓氏分布から類推すると、村内はもちろん現在の千代川村、八千代町等にも及んでいたもののようである。
 雪窓には、安政元年(一八五四)に始まる自筆の俳句集「鯉鱗行」安政六年に始まる「附句漫録」等があるが、「鯉鱗行」から数句を抜いてみよう。
 
    中々よとし豆くたく歯のちから
    花に行名古屋草履(ぞうり)のかるさ哉(かな)
    一声に空のしたるや不如帰(ほととぎす)
    いく度か耳をすましつ雨の月
    袖曳てかさぬも嬉し雪の傘
    月花は何処の折目ぞ初暦
 
 「許我(こが)のわたり」に集録されている雪窓の句
 
    折々に見ねば気になる継穂哉
    杣(そま)が家の愛相もなき時雨哉       (連歌の中)
    おもふ身は顔の扇もはなされず     (同右)
    柏手も花の奥なる朝ほ(ぼ)らけ       (同右)
 
 右のうち「許我のわたり」句集というのは、古河の盲目の俳人古河藩士島津南崖が全国を行脚して、各地俳人の句を乞い集めて、嘉永三年(一八五〇)出版した俳句集である。