増田素柳の俳諧と俳諧歌

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増田素柳は岡田郡向石下村に生れた。増田務家の祖であり、故石下町教育委員会教育長増田寿太郎の曾祖父にあたる。
増田家墓地の碑には、
 
    石耳(に)なる覚悟はし帝(て)も寄寒し
 
の句があり、邸内の碑面には、
 
    世幾麗(せきれい)や神代おもへ盤古い鳥
 
の句がある。「許我(こが)のわたり」句集には、
 
    いつの間に枳(からたち)の花のさかりかな            素柳
 
の句がある。
 

Ⅵ-2図 素柳の句碑(拓本)

 しかし、素柳作の圧巻は、天保飢饉時の「凶作俳諧三十六吟」(増田務家蔵)である。俳諧とあるが、実は俳諧歌と称される文学形態の作である。「広辞苑」によれば、「滑稽味を帯びた和歌の一体、万葉の戯笑歌の系統をひき、古今集巻一九に俳諧として多くの作を収める。後の狂歌の源泉となった。ざれごとうた」とある。
 天保の大飢饉(一八三六~三七)にあたり一般庶民(農民)の悲痛な叫びや、焦燥や、苦慮等を深刻にうたいあげた名篇ぞろいで、その中から抜粋してみると次のようになる。
 
    此夏は綿入常に着古して違作届に江戸へ往て来る
    今銭は兎角(とかく)に安く成り申す天保七年申(さる)の凶作
    月といふ月も今年は拝れす皆新米は舂(つ)けば粉に成る
    秋祭り有合物て間に合せどふ(う)で乞食は死ぬ覚悟なり
    散る花も知らでとふとふ(とうとう)春過ぎぬ草も螺(たにし)も拾い尽せり
    徳利て米舂町の永き日に御救小屋に凌ぐ身のほと
    一向に天の恵を松の風音にも響く甲州の沙汰
    爪に火をとほす行燈(あんどん)の薄くらし庚申待の宿も茶で済
    金持も穀持人に世をとられ独り歩行も出来ぬ此頃
    何となく物持共の肌寒さ薬ほとなる百文の米
    指折は今年で五十一年目奢(おごり)の過た戒(いましめ)と知れ
    湯ふくれの腹を抱えて花の空麦の育(そだち)の待遠な春