狂歌

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江戸時代においては、常陸の鹿行地方や北総の地は、比較的狂歌のさかんな地区であったといわれているが、俳人秋葉素盟も「雪窓庵文守」の号で狂歌に手を染めていた。
 
   待よひはこがらしの風となりてとくふきはらへ木枕のちり
   うれしさは今宵をはらむ盃の月をも宿す婚礼の閨(ねや)
   十五夜の糸瓜(へちま)の水にときつらん顔に隈(くま)なくのりしおしろい
   なきしきるかはすのうたの雨乞に水もほとよき賤(しず)が苗しろ
   つはめくる春のしるしとにきやかに軒場をつたふ鳥追のうた
 
白河侯松平定信が、寛政の改革を実行するにあたり、その厳しさの圧迫感に抗して、
 
    世の中に蚊(か)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふ(う)て夜もねられず
    白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき
 
とうたわれたように、自然と人生を批判的諷刺的に辛らつに捉えて、自由奔放に、または滑稽化してうたいあげた短歌形態の作が狂歌の本領であろうが、素盟の場合には、俳句の格調ある文学性が顔をのぞかせて、極めて温和なものになっているといえよう。むしろ、素柳の凶作吟の方に鋭さがあるように思われる。
 号だけではいずれの人か不明だが、同じころ飯沼地区には、村立、弓雄、花守、遠村、村人等の狂歌愛好グループがあったと伝えられるが、あるいは素盟をめぐる俳人達が、余戯として楽しんだのかも知れない。