和歌

578 ~ 580 / 1133ページ
文化文政から天保にかけ、江戸においては香川景樹(かげき)(一七六八~一八四三)を中心とする桂園派が歌壇の中心勢力となっていたが、「専門の歌人をのぞけば、和歌は一般庶民層に浸透せず」(笠原一男)というのが実状であったらしく、当地においてもこの面での資料は極めて少ない。ただ崎房の秋葉義之が時々江戸に出ては、国学者その他の人と交流を深め、和歌についても学んで、数々の歌を残しているのが唯一の資料であるといってよかろう。秋葉家(光夫)所蔵の義之の「自詠草」の中から少し抜粋してみよう。
 
    まろいあい下戸も上戸もむつましき月の初のそうにとそ酒
    田のあしに引くれうちて下たのをのゆるりとあゆむのへのしつけさ
    世をさけし人はさけにもまされりと分きて泉の水やのむらん
    旅人はあられの玉をふみわけてそろろ渡らふ足柄の関
    霜おける庭ははくにもはきにくくたたちり残るきくの一本
    あれもほしこれもほしとて上みれば望ははてぬ星の数々
    ふり積る木の枝よりも我中をさけよとはうし通路の雪
    谷川のはやせにかけし丸本橋みるめもいとしくるめきにけり
    我後をたのむ子たちに死れしはふ幸とやいはん孝とやいはん   (小児のみまかりし時)
    おみないし桔梗とはきと水の面にいつれかはやくうつろひやせん
 
 しかし、当地区には、他町村に比し、墓碑に辞世の和歌が多いのはいかなる理由によるものであろうか。とくに多いのは若宮戸地区で、若宮戸公民館西側墓地には、数々の墓碑に刻んだ辞世の歌を見ることができる。辞世の性格上、仏教の無常観や浄土思想に裏打ちされたものが多い。
 
    苦と楽能(の)種を此世におき美屋(みや)け弥陀の浄土へ花盤(は)知梨(ちり)行   (文政九年)
    道行の常の念仏身越ま可(をまか)せ弥陀の浄土得(え)生連(れ)て楚(そ)すむ    (天保二年)
    生れ来て故郷へ返る水知なり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏             (文化二年)
    家可と久(かとく)親に茂呂(もろ)ふ多登(たと)思うまし王つ可能(わつかの)間預りの品 (慶応三年)
 
 若宮戸常光寺(時宗)には、二九世の采運と称する学僧が居て、寺小屋教育を実施していたというから、あるいはこの学僧の指導によるものであろうか。一遍上人を宗祖とする、浄土系の時宗という宗派の学僧の指導であるとすれば、浄土思想で色濃く貫かれていても不思議ではない。
 

Ⅵ-4図 秋葉省軒『自詠草』(秋葉光夫氏蔵)