庶民教育の諸相

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安政一年(一八五四)日米和親条約を締結したペリーの遠征記録「ペルリ提督日本遠征記」(岩波文庫)には、幕末期の日本人一般の教育に関し、「人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心」「教育は同帝国致る所に普及しており、又日本の婦人は」「男と同じく知識が進んでいる」と述べている。また、トロイア遺跡の発見者シュリーマンも、一八六四年東南アジア見聞の途次日本にも立ち寄り、その時の見聞記「日本中国旅行記」(新異国叢書)の中で、やはり同様の感想を述べているという。こうした見方については、条約締結にかかわった、あるいは条約締結後訪日の外人達もほぼ同様の印象を持っていたといわれているが、版木が磨り減る程のベストセラーも化政以後は出ていたことと考え合わせれば、必ずしも外人達の過褒の言だともいえまい。それらの外人達がどのような階層の人々と接触を持ったのかということも一応問題になるが、幕府及び藩侯は支配者の立場から教育を考え、庶民階層は寺子屋教育等の下からのもりあがりで教育には極めて熱心であったこと、商業経済、流通経済の進展等で、日常生活にも生産活動にも庶民間に読み書きの要求が高まった等が相乗して文化(一八〇四~一八)文政(一八一八~三〇)以降は、とくに寺子屋教育を中心とする教育活動が充実発展した。
 庶民教育の指導者はさまざまで、地元の知識人、流浪中の学者、浪人あるいは神主、医師等さまざまであったが、学習の場が最も適正であったこと、人材が寺院に多く集結していたということで、やはり寺子屋教育の名が示すように寺院僧侶による庶民の教育が中心であったように思われる。
 石川謙は『概説日本教育史』の中で「習字は寺小屋の全教育内容をつつみ集約するところのコア(中核的教科)であった」といっているが、教授の中心は「書くこと」「読むこと」であったようである。あとは土地柄や集った生徒に応じて、各種の往来物を資料にしたり、女子には生花、茶の湯、裁縫等も教授したらしい。当地方では、どの程度の教育が行なわれたか、確実な記録は残されていないが、各地区に散在する「板碑」や「筆子塚」や古老の口伝、古文書等から想定できるものについて概要を述べてみよう。
 「筆子塚」というのは、教授を受けた筆子(生徒)が師匠の霊をとむらうために建立したもので、多くは台石の正面又は側面に「筆子中」「筆第中」「筆子男女中」と刻され、側面に代表門人等の氏名や集落名等が刻まれているのが普通である。「筆第中」と刻されているのが一基あったが、第は漢音でテイと読み弟と同じというから、弟子の意で筆子と同一の意味である。
 

Ⅵ-6図 筆子塚(東弘寺境内)