僧侶による寺小屋教育

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阿闍梨(あじゃり)乗拾師
本石下松葉地内に、廃仏毀釈で廃寺になった東福院という寺跡の片隅に「法印権大僧都阿闍梨乗拾」師の筆子塚が建っている。「于時慶応三年丁卯三月五日 行年七十九歳」とある。東福院というのは下妻普門寺(天台宗)の末寺で、明治初年本石下の里正新井五郎左衛門等の廃寺願によって廃寺となったものである。乗拾師は僧籍にあり、かなりの学僧でもあったもののようで、東福院内で教育をしたらしい。
 辞書によれば「法印」は「昔僧の最高位」、「僧都」は「僧の官位、僧正につぐもの」、「阿闍梨」は「模範となる高僧」または「真言天台の僧の学位」とあるから、相当の学僧であったものと思われる。
 村役人であった新井五郎左衛門、吉原八右衛門、新井惣左衛門、新井仙助、中川平十郎の五名もこの建碑に醵金しているところをみると、筆子を含め、村ぐるみの建碑であったものだろう。世話人としては、網沢長左衛門、小林孫右衛門、黒川平七、野村忠右衛門他二名の名が刻されており、その他門弟では、原村(現千代川村)一人、向石下村六人、国生村七人を含む本石下村新石下村を中心とする一一四人の名があげられている。集まった範囲からも、人数からも、かなり盛大な寺子屋教育の一つに数えてもいいだろう。それにしても小籔の中に悄然と、花も香煙もなく顧みられずにあることがあわれを催す。
 
井上諦(たい)円
 東弘寺域の南西隅に、同寺の末寺である光円寺がある。光円寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となったものであるが、光円寺十一世の住職井上諦円は、寺小屋師匠として教育の任にあたったもののようで、同寺の西北隅には門人達によって建てられた「筆子中」の墓碑がある。台石の側面には代表門人として岩淵瀬兵衛、岩淵半兵衛、風野藤右衛門、川田藤兵衛、入江元左衛門の名がある。姓氏より判断すると、山口、平内、収納谷方面の人達である。諦円は弘化四年(一八四七)没した。
 

Ⅵ-7図 井上諦円筆塚

 
教厳院師
 豊田中央公民館の入口に、筆子連中で建立した「教厳院叟史誉的翁居士」の筆塚がある。教厳院師は、同地にあった宗心院(禅宗)の同居者大日堂堂守の矢野智微であるらしい。碑の台石の前面側面に刻されている門弟達の氏名をみると、相当盛大に行なわれていたことがわかる。碑に刻されている世話人としては倉持茂右衛門外一四名、門弟として飯塚伊兵衛、小林五兵衛、小島卯右衛門、中山助三郎など一六名の名が刻されているが、おそらくは代表門弟の名であろう。集落名も記されているが、地元豊田のほかに、曲田、館方、遠くは上郷村(現つくば市)、亀崎村(現千代川村)等の名もあり、かなり遠方からも来ていたことがわかる。
 
高松師
 井上諦円の碑の近くに高松師の板碑が建っている。高松師は、明治初年廃寺になった東弘寺の末寺光善寺の住職であった。筆子塚の裏面には、明治十四年六月四日「大円代建之」と刻されているところをみると、高松大円が先の住職について筆子達の要請で建てたものらしい。台石には「筆子男女中」とあり、国生村世話人として大坂彦兵衛、横瀬仙松、大久保庄平、清水兵吉の名がありすべて国生村の人達で他村のものは一人もいない。国生村の人達が鬼怒川を越えて光善寺まで出向いて勉学したのか、もともと真宗門徒の多い国生村のことだから、高松師が出向いて行なわれたものか判然しない。
 
桂光院師その他
 若宮戸「常光寺」の寺域内にある同寺累代の碑の中に、一基筆子達によって建てられた碑がある。正面に「当山廿九世桂光院基阿感澄采運和尚」と刻されており、嘉永七年(一八五四)に建てられたものである。台石には何の印刻もないが、若宮戸、原宿方面の同寺門徒の人達が主として勉学したものであろう。
 幕末、本豊田竜心寺には江外和尚という学僧がいて、やはり近隣の子弟に教育をしていたと伝えられているし、向石下の法輪寺においても寺子屋教育が行なわれていたと伝承されている。明治初年の廃仏毀釈の厳しい弾圧では、現石下地域内において約三〇数か寺が毀釈の厄に会っているが、江戸時代においては、幕府の保護政策により、各村毎に一、二か寺があり、各寺僧が村人の相談にのったり教育をしていたので、この面からも教育は相当普及していたとみて差支えない。