興津氏の系譜はⅦ-1表で示したが、これによると、初代正忠は今川義元、家康に仕え、関東入国の後、天正十九年(一五九一)相模国高座郡で三〇〇石を与えられた。この領地は下寺尾村、茅ケ崎村にあった。
その子忠能(よし)も慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦い以後にかつての領地を改めて、下総国香取郡、葛飾郡、上総国武射郡、長柄郡、相模国愛甲郡、武蔵国榛沢郡のうちで一七三〇石余となった。
本石下村や若宮戸村に知行地をもった興津氏は、この忠能の二男で別に家をおこした宗能の系統の家である。宗能は一一歳になると元和九年(一六二三)に父の知行地のうちで相模国愛甲郡、武蔵国榛沢郡、下総国葛飾郡の内で五三〇石を与えられたのである。
Ⅶ-1表 旗本興津氏の系譜 |
正忠(久七郎) | 今川義元,家康に仕え天正19年(1591)相模国高座郡の内(下寺尾村,茅ヶ崎村)で300石. |
忠能(内記) | 慶長5年(1600)以後,使番,のち秀忠娘珠姫の前田家入輿ののち附属させられ,元和8年(1622)逝去により江戸へもどる.かつての知行地を改め下総国香取郡,上総国武射郡,長柄郡,相模国愛甲郡,武蔵国榛沢郡の内で1730石となる.そのうち,愛甲郡戸室村等530石を忠能2男宗能へ分知.戸室村子権現社を慶長12年(1607)再建,元和2年(1616)戸室村浄雲寺を中興開基. |
①宗能(兵左衛門) | 元和2年(1616)530石分知,書院番.寛永10年(1633)2月7日埼玉郡で200石加増される.寛永19年(1642)5月御堀浚の奉行.万治元年(1658)9月小十人組の番頭.同年閏12月300俵加増. |
②忠閭(兵左衛門,能登守) | 延宝3年(1675)祖父の遺跡をつぐ(父能玄病につき).天和元年(1681)2月小姓組,元禄6年(1693)御徒の頭,元禄10年(1697)7月26日蔵米300俵を下総国豊田郡のうちで300石.元禄14年(1701)西城の留守居,宝永2年(1705)3月寄合に列し,相模国愛甲郡,下総国豊田郡,岡田郡のうちで1000石加増されすべて2030石となる.のち岡田郡の知行地を上総国望陀郡へ移される. 享保3年(1718)新番の頭.享保9年(1724)甲府勤番支配,享保10年(1725)大目付,享保17年(1732)吉宗の子,田安宗武の御守役,元文3年(1738)73歳で死去. |
③忠通(伊勢守,伊予守) | 元文3年(1738)5月遺跡をつぐ(横田栄松2男婿養子).延享元年(1744)使番,宝暦3年(1753)2月日光山宮修補の任につく.宝暦4年(1754)8月浦賀奉行,宝暦7年(1757)9月大坂町奉行. |
④忠真(兵右衛門) | 寛政6年(1794)9月遺跡をつぐ(兄忠瑛病死に付),同年12月将軍家斉に拝謁,寛政8年(1796)6月死去. |
⑤忠美(亥四郎,兵左衛門) | 忠通5男,寛政8年(1796)9月遺跡をつぐ(16歳)御小納戸,寛政12年(1800)戸室村鎮守子権現社修理料を寄進する. |
⑥忠辰(兵左衛門) | |
⑦忠告(健之助) | (幕末) |
健之助 | (幕末・明治初年)「旧高旧領取調帳」 |
錦三郎(弟ヵ) |
『寛政重修諸家譜』弘化2年(1845)興津家御系図之略(新井 清家文書),『神奈川県史』資料編8,『新編相模国風土記稿』 |
この宗能の後を継いだのが忠閭(とも)といい、父能玄が多病のため、一五歳になった忠閭が祖父の家督を継いだのである。忠閭が石下に領地を持ったのは元禄十年(一六九七)七月の元禄地方直しである。この時忠閭は知行高一〇三〇石のうち三〇〇俵が蔵米取りであったので、この分を知行地に替えて、下総国豊田郡のうちで与えられた。この時は石下のどの村が対象になっていたのかははっきりしないが、おそらく若宮戸村や館方村がそれにあてられていたものと考えられる。さらに、宝永二年(一七〇五)三月になると寄合に列した忠閭は一〇〇〇石を加増され、相模国愛甲郡、下総国豊田郡、岡田郡のうちで知行地が与えられた。この後に岡田郡の知行地は上総国望陀郡へ移されることとなったので、岡田郡のどの村が対象になっていたかは不明である。こうして豊田郡では本石下村(七二一石)、館方村(八七石)、若宮戸村(五六石)が忠閭の知行地となったのである。
その後、興津氏は忠閭の後、忠通―忠真(まさ)―忠美(よし)―忠辰―忠告と続き明治維新を迎える。「旧高旧領取調帳」には興津氏として、若宮戸村と館方村に錦三郎が、本石下村に健之助の名前がある。おそらく錦三郎は健之助の弟で分知されたものと思われる。
興津氏の拝領高は二〇三五石余であるが、幕末には込高四六三石を含め、知行高は二四九九石余となっていた。領地は相模、武蔵、上総、下総と各地に分散していたが、知行地の村々をⅦ-2表によってみると、最大は本石下村で七二一石余、家数六二軒、人数二六九人、興津氏の財政をささえる重要な村であったことがわかる。最低の領地は若宮戸村で、知行高五六石余、家数三軒、人数一五人であった。
Ⅶ-2表 興津氏の知行地 |
国 郡 名 | 村 名 | 知 行 高 (A) | 家 数 | 人 数 (B) |
石 斗 升 合 勺 | ||||
相模国愛甲郡 | 金田村 | 274.7.9.4.9 | 42軒寺共 | 187人(男95・女83*) |
七沢村 | 337.4.8.7.4 | 83軒寺共 | 323人(男170・女153) | |
戸室村 | 243.1.6 | 29軒寺共 | 127人(男71・女55**) | |
上総国望陀郡 | 矢那村 | 104.6.6.8 | 15軒 | 83人(男37・女46) |
有吉村 | 57.5.0.3 | 8軒 | 36人(男16・女20) | |
滝野口村 | 107.2.2.4 | 24軒 | 124人(男61・女63) | |
武蔵国埼玉郡 | 今井村 | 200. | 14軒 | 59人(男25・女34) |
榛沢郡 | 牧西村 | 200. | 20軒 | 75人(男37・女38) |
下総国葛飾郡 | 中 村 | 110. | 10軒 | 59人(男29・女30) |
豊田郡 | 館方村 | 87.6.5.7 | 12軒 | 48人(男25・女23) |
若宮戸村 | 56.1.3.6.9 | 3軒 | 15人(男7・女8) | |
本石下村 | 721.2.3.8 | 62軒 | 269人(男144・女125) | |
12か村 | 2 499.8.6.9.2 | 312軒 | 1 405人(男727・女678) | |
拝領高:2035石9斗4升 込高463石9斗1升8合9勺(2499石8斗5升8合9勺) |
(A)天保14年(1843)武蔵・上総・下総・相模郷村高帳 (B)文化7年(1810)武蔵・相模・上総・下総知行所人数帳 | }(本石下新井清家文書) |
*ほかに山伏3,僧6 **ほかに山伏1 |
このように興津氏に限らず旗本の知行地は関東に分散しているのが一般的である。この知行地の中には、近世初期に与えられた村の中に旗本が本貫地としての意識を持っている村があることが多い。たとえば興津氏の場合、興津忠能は慶長十二年(一六〇七)に相模国愛甲郡戸室村にある鎮守の子権現社を再建したり、元和二年(一六一六)には浄雲寺を中興している。この浄雲寺は忠能の法名浄雲院先誉常照をとって寺号としたものである(『新編相模国風土記稿』)。このようなことから興津氏は、元禄期以降手に入れた下総や上総の新領とはちがって、旧領の相模の地に本貫地意識を持っていたものと思われる。それは江戸時代後期の寛政十二年(一八〇〇)になっても、忠美が戸室村子権現社に修理料米一俵を寄進していることからも推測できる(『神奈川県史』資料編8)。
Ⅶ-1図 興津氏の印(新井清氏蔵)