興津氏と村支配

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本石下村が興津氏の所領となったのは宝永二年(一七〇五)のことであった。この本石下村は、第一章第二節の石下の領主変遷表を参照すると、江戸後期の文化九年(一八一二)以降は旗本四給の村となった。その旗本たちは、宝永二年(一七〇五)に興津氏、享保十五年(一七三〇)からは榊原氏、文化九年からは土屋氏と上原氏の知行地となり、四人の旗本の分給村となったのである。
 文化九年十二月の「地頭姓名高書帳」(新井清家文書)によると、本石下村は村高九八三石二斗の内、興津兵左衛門(忠美)知行分七二一石二斗三升八合、榊原隼之助知行二石二斗一升、土屋千之助知行分一四八石六斗三合六勺、上原藤三郎知行分六二石九斗二升八合四勺というように村が分けられていた。
 このような分給は村高に対する知行高の比率に応じて分けられていたのであり、原則として農民は一領主に属するように分けられていた。旗本は自己の知行地に対してはそれぞれ独自に名主・組頭を任命している。こうした行為は幕領や藩領にはみられないものであり、さらに年貢の徴収においてもそれぞれ独自の賦課率を持っていた。
 たとえば、興津氏は相模国愛甲郡の知行所であった戸室村ではすでに慶安元年(一六四八)九月に子年の取り四ツの定免制を実施している(『神奈川県史』資料編8)。
 関東農村にみられる相給村落は、こうした旗本の分給支配の上に成立しているのであり村落共同体は分給支配を前提として営まれていたといえよう。
 

Ⅶ-2図 給人次席任命書(新井清氏蔵)


Ⅶ-3図 新井家の墓所(興正寺)

 知行地の分散する旗本にとっては、全知行地掌握のため、各村々の名主の上に割元名主や地代官を設置する者もいた。興津氏の場合、豊田郡三か村の名主の総代として本石下村名主新井家を割元名主に任命している。新井家はその系譜が示すように、在地の土豪的農民の性格を持つ。初代三河守雅輝は小田氏の家臣の伝承を持ち常陸小野川村小野崎城主という。寛永十年(一六三三)に没した四代五郎左衛門以降幕末に至るまで、当主は代々五郎左衛門を襲名している。また、姻戚関係でも、元禄十四年(一七〇一)二月に没した「永寿院心岳妙玄大姉」という女性は向石下の増田大学の妻であるが、その他古間木の渡辺善左衛門家との姻戚関係などもあって、新井家が近世初期以来、近隣の有力農民と姻戚関係を持つ本石下村の有力農民であったことを示している(「新井家系譜抄」新井清家文書)。
 新井家が興津氏の名主となった時期は不明だが、おそらく元禄宝永期の分郷の際と思われる。史料上では幕末になって発給された下知状や申渡書しかないので、天保期以降のことしかわからない。史料上では、名主五郎左衛門(雅治)に天保十一年(一八四〇)六月、苗字帯刀御免、割元役が申付けられる。さらに、弘化四年(一八四七)には五郎左衛門悴の名主高之助が病死したため、これまでの通り給人席代官役、名主兼帯を命ぜられている。安政三年(一八五六)二月には知行所代官給人次席熨斗目以上を申渡され、これまでの玄米一石八斗と引替えに御手擬金四両を与えられている。
 また、文久二年(一八六二)十一月には、年寄惣左衛門に対し、亡父新井甚太夫が江戸詰に精勤した賞として、給米一俵を与える下知書が出されている。
 このように新井家は苗字帯刀を許され割元名主を勤め、江戸後期に旗本の財政が悪化し、その家政改革に深くかかわることを余儀なくされ、弘化年間以降、知行所代官給人次席に取り立てられるようになっている。
 安政三年三月の申渡書をみると、五郎左衛門は下総国知行所の代官給人次席熨斗目以上であり、割元名主として本石下村、館方村、若宮戸村三か村の総代であり、同じく、相模の金田村の角田勘三郎は相模国知行所の代官給人次席熨斗目以上に取り立てられていることから、角田甚三郎と新井五郎左衛門の手によって知行所の年貢諸役、御用金、先納金等の采配がふられていたといえる。旗本家政改革にはこうした割元名主が全面的にかかわるのだが、天保の興津氏の家政改革期にあたる天保四年(一八三三)巳七月のものと思われる下知書には、五郎左衛門に「給人席用人勤勝手向支配」を命じ、金田村の角田勘三郎とともに務めるようにと申渡している。知行地の村に財政賄いを一任したり、あるいは、有力農民を割元名主から給人、用人に取り立てて財政担当にあたらせ、全知行地をまき込むほど、旗本の江戸後期の財政は悪化の一途をたどっていたといえる。