財政悪化する旗本

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幕府の旗本たちの財政的窮乏は、江戸初期の段階からみられたことであった。徳川幕府の編纂した「徳川実紀」によると、「旗本はみな三河以来、一命を投げ捨てて忠節をつくしてきた者たちの子孫であるから、その困窮をみていかにしても救わなければ」という意味の記事があり、寛永九年(一六三二)二月に諸大名や旗本へ家康の御遺金を配分している。
 こうした財政窮乏を救う対策の一つとして寛永や元禄の地方直しとよばれる知行替え策が実施されてきたのであるが、一八世紀半ば以降になると諸大名をはじめ多くの旗本たちは、一層の財政難に落ち入ることになっていった。旗本知行地の村々ではさまざまな臨時の出金命令に対しては、年貢米金の内から支払うことを原則として領主の命令に応じてきたが、それでも近世後期になると知行所村々の負担は過重なものとなってきた。村にとっては、まさに「泣く子と地頭には勝てぬ」であった。