三〇〇〇両の借財

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旗本領主は知行地の村からの年貢米金の徴収のほかに、商人からの借金を村に返済させたり、村からも出金を命じたりするほか、村内の有力農民や新興商人などに種々の名目で多額の出金を命じたり、名主や有力農民を家政を取りしきる給人などに取り立てて、扶持を与え苗字帯刀を許すなど在地に密着した支配を行なっていった。旗本興津氏の場合でも、名主五郎左衛門を給人次席にまで取り立てて興津氏の知行所支配と家政に深くかかわらせていた。
 享和三年(一八〇三)十月、財政難になった興津氏は、一〇年賦で知行所物成代金にて返済する約束で五〇両を代官所御用貸付金から借りうけた。この公金貸付けを受けたのに続き文政三年(一八二〇)正月になると板倉屋仁右衛門より四三一両を借り、翌文政四年六月、日光山役所貸付金から二〇〇両を借用する手続きをとり、八月には本石下村が七年賦返済で一五〇両の拝借を引き請けた。文政八年二月には奈良屋五郎兵衛から七月十日限りで、本石下村の物成で返済することで一五〇両を借りるなど、文政期に入ると商人や幕府の公金貸付けなどから借金を重ねている。これらはすべて知行所の物成から返済する条件になっており、文政期に入ってますます旗本興津氏の財政が悪化してきたことを示している。
 文政八年三月までの興津氏の借財をまとめてみると、Ⅶ-3表のように知行所村々よりの先納金等を除いたとしても約三〇〇〇両もの借財があった。
 
Ⅶ-3表 興津家の借財
杢左衛門約250両
 280両
金□源屋 220両
御城女中 200両
日野屋 462両
木村屋  35両
  15両
米屋利平 190両
芝米屋  80両
今 井  40両
御 奥 500両
郡 代 412両
日光奉行 152両
質 物 200両
鉄炮洲 150両
若狭屋 130両
3 316両
文政8年3月「御賄取極議定書」
(本石下新井 清家文書)