御勝手賄いの始まり

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文政八年三月には「御賄取極議定書」が示すように、知行所村々による興津氏の財政管理が始まった。史料で見る限りでは、この前年の文政七年が興津氏の財政を、村々が管理賄うようになった最初の年のようである。
 この議定書によると、興津氏の知行所一二か村は、文政七年に旗本御勝手の賄いを引請けて月々出金して来たが、議定以外の入用がかさみ、困窮の村々からは資金の調達が不十分になってきたため、知行所村々は勝手賄いを断わったところ、逼迫する財政ゆえに賄いを減額して文政八年から三年間の間はまた村々が引請けるというものであった。
 この議定書では、第一に給金のほか万事月々の賄いは二〇両と定めた。この内、飯米代一〇両、薪代一両二分二朱の計一一両二分二朱は勤番村が二十八日を期限として上納し、残りの八両一分二朱は全知行所村々が割当てによって前月晦日を期限として出金することになった。また、盆暮れの付け届け金は一五両ずつと定められ、それ以外の出費は断わるとした。ただし、よんどころない臨時の節は村々で相談の上で出金を考えるとした。
 第二に御城上納并日光拝借御郡代返納金については、引請けの村によらず全ての知行地の村々の物成をもって年々返済することにして、特定の村に負担がかからないように決めた。
 第三に御隠居様雑用金は月々二両一分二朱ずつ上納することと定められた。
 月々の賄金出金の勤番村の順をみると、
 
  正月~三月相模三か村(金田村、戸室村、七沢村)
  四月~六月本石下村
  七月武蔵今井村、牧西村、館方村、若宮戸村
  八月上総三か村(矢那村、有吉村、滝野口村)
  九月相模三か村
  十月下総中村、本石下村
  十一月相模三か村
  十二月全知行所負担


 
というように決めて、六月十八日に「地方勝手掛」になった中川太右衛門へ議定書を提出した。
 

Ⅶ-4図 御賄取極議定書(新井清氏蔵)