興津氏知行所の村々は勝手賄いをようやく承諾し、「地方勝手掛」中川太右衛門の賄いが始まろうとしたところ、突然、中川太右衛門は退役を命じられ、代わりに秋月権太夫という者が再び役務についた。
この秋月権太夫は以前に一〇年間御用役を務めた用人であり、その間に三〇〇〇両の借財ができていた。名主たちは秋月が担当してまた借財がかさみ、四〇〇〇両にもなったら賄い方法も無駄になると危惧した。
この秋月権太夫は退役後ら興津氏の屋敷へ出入りしていた者であり、村々名主はこの者が賄金の調達の障りになるとして、三月中に出入り差留めを願ったが一向に聞き入れられなかった。さらに、中川太右衛門が退役させられた以上は、今後は名主役を勤めることが難しいと本石下村名主五郎左衛門、中村名主七郎左衛門、今井村名主長兵衛の三人は九月に地頭役所へ名主退役願いを提出した。
これに対して地頭役所は五郎左衛門の名主退役と国元謹慎及び七郎左衛門の国元謹慎を申付けた。九月十四日、こうした地頭役所の処罪に対し態度を硬化させた知行所村々の今井村長兵衛、戸室村久兵衛などの七名の名主たちは一同そろって一斉に退役を願い出て地頭役所へ揺さぶりをかけた。
「地方勝手掛」を退役させられた中川太右衛門は中村の名主七郎左衛門が屋敷に引き入れた者であり、そのことで七郎左衛門は国元謹慎となったのだが、知行所の名主と連携をとる用人とともに名主たちは自分たちの手で地頭の勝手賄いを担おうとしたのであった。さらに、秋月権太夫に対してその更迭を願い、名主役退役という手段で秋月に対抗したのは、秋月が担当した一〇年間で三〇〇〇両もの借財をつくり、それが村々の大きな負担になっていたことの反感と、再任されることでより負担が過重になると予測し危機感を持ったためであったといえよう。