増える借財

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この文政八年以後も、勝手賄いを実現させる上で、金子の借入れを村々が引請けざるを得なかった。たとえば、文政九年(一八二六)三月には円満院宮より二五〇両を三か村引請けで借用した。また同月に相模三か村が高一〇〇石に付五両の割りで先納金納入を申付けられ、本石下村の五郎左衛門の元へ三〇両を送っている。
 同年九月には知行所村々は再度先納金一五〇両の納入を申付けられたが、一〇〇両上納し、残金五〇両は十月まで日延べにしてほしいと願い出ている。さらに前述のように、文政十年二月には鹿島屋より九〇〇両の借金の引請けを七沢村、金田村が行なったほか、困窮のため先納金が上納できないため、知行所村々は連名で太市から一〇〇両借用している。文政十二年十一月には地頭役所は村山屋吉右衛門より二〇〇両を借用し、その返済を金田村、本石下村が引請け、同年十二月には知行所一一か村が先納金四三一両を八年賦、年一五〇俵ずつの返済の約束で板倉屋仁右衛門より借用している。
 このように文政八年以降、地頭役所の借財及び知行所村々の先納金不足のための借財は増加していき、文政十二年までの四年間で地頭役所が九〇〇両の借財、村々が先納金等上納のために九八一両の借財をつくり、両者でおよそ二〇〇〇両ちかい惜財ができていた。