知行所の村々では年貢のほかに先納金や臨時の出金が重い負担になっていたが、文政八年(一八二五)の用人秋月権太夫の更迭を要求した知行所村々名主の退役願いや、翌文政九年の先納金残金日延べ願いにみられるように、知行所村々の地頭支配に対する抵抗はますます強まっていった。
天保期に入ると知行地の村々は連年の不作、凶作にみまわれ困窮化していき、村落社会の秩序も変化していった。特に天保六年(一八三五)から翌七年にかけては全国的な飢饉状態となり、いわゆる天保の飢饉にみまわれた。これは寛永・天明の飢饉とともに江戸時代最大の飢饉であった。全国の農作物の作柄は平均して四割にしかならなかった。特に東北や奥羽地方はその被害がひどく、天保七年の死者は一〇万人に及んだという。江戸でも天保六年の餓死者は一二三人、同じく天保七年十月の一か月間の行き倒れ人は一〇〇人というありさまであった(『体系日本歴史』4幕藩体制)。
このような凶作、飢饉状況は知行地の村々でも天保四年の冬から始まっており、江戸では米価騰貴や米の買占めに対して騒動、打ちこわしが頻発していた。
石下地域では連年の凶作の中、文政六年八月の新宗道河岸の鬼怒川堤防決壊に続き、天保十一年六月の大雨で鬼怒川が増水し、宗道、新宗道、原の三か所の堤防が決壊して周辺地域に多大の被害を与えていた。
こうした知行地の村々の荒廃状況の中で、地頭興津氏は、文政期に引き続き天保五年を中心とする「家政改革」を実施して財政の引き締めをはかった。文政期に行なわれた知行所村々が地頭の勝手賄いを引請けるということは、結局十分な成果を上げることができなかったものとみえ、知行地村々の困窮化とともに地頭の借財がかさんでいったとみえる。では天保期の興津氏と知行所村々の動きを追ってみよう。
天保二年七月、地頭より御勝手暮し方一式のための出金を村々は命じられ、二四三両を月々割賦にて上納するようにした。村々では、この賄い金の上納の条件として、郡代、日光役所の返納や郷印済方などのよんどころない出金も、この割賦の内で済ましてほしいと願い、他の臨時の出金を強く拒否している。
さらに同年九月二十八日には「御勝手向賄金」に差支えるとして一一四両が知行所七か村に賦課された。これは来年天保三年の物成をもって元利勘定することになっていたが、この時の割合をみると、本石下村では永六〇貫四〇九文、若宮戸村永五貫七〇文、館方村永七貫五九四文がそれぞれ申付けられていた。
翌十月、以上の先納金を申付けられた下総三か村の村々はその出金ができず、しかたなく「円満院宮様」から来年の二月十五日を期限として二〇両を拝借している。先納金の上納に差支えれば、村々は他からの借金で納入を補わなければならなかった。
天保三年になると、石下の三か村に対して地頭役所は、村の男子一五歳から六〇歳までに、三年間一日縄一房の冥加差上げを申付けてきた。地頭役所のいうことには近年勝手向賄いを村々からの先納金や借財で凌いできたが、去年の天保二年よりまた、家中や下々の者まで暮し向き等を厳しく切り詰め省略してきたが、借財が多く改正の仕法も成り立たないため、今度、村々の百姓共に頼むことは、村々の一五歳以上六〇歳までの男子を調べ、三年間一日に付縄一房ずつ差上げるようにしてほしいということであった。
Ⅶ-6図 天保3年縄一日一房命令(新井清氏蔵)
しかし、この地頭役所の申付けに対して村側では、村によっては男がなく女ばかりの家もあり不公平なので、男女とも一口一文ずつ積金することに変えてほしいと要求した。この結果は不明だが、天保期に入ると度々の出金命令や借財引請けに対して村々が強い抵抗を示し、村落内部では名主が小前たちから激しいつき上げを受けるようになってきていた。
天保三年二月、困窮する村々は地頭への先納金が不足したため、「板倉屋仁右衛門」から借金をした。それは米一二〇〇俵分を八年間、年に一五〇俵の割合で廻米することで借金を支払う約束であって、前金として四三一両を請取っていた。ところが、不作の続く村方は約束の二年分の三〇〇俵を板倉屋に支払うことができず、その代金の一七一両一分余の払戻しを板倉屋から要求された。ようやく一〇〇両ほどを二度にわけて支払ったが、残る七一両はどうしても払えず、六月期限のところをなんとか日延べしてほしいと知行所村々名主連名で板倉屋に願い出た。