若狭屋への依頼

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地頭所の勝手賄いは、知行所村々がささえるのだが、村々は十分に先納金等が出金できないありさまであった。そのため一人一日縄一房差上げさせることで補おうとしたりするが、結局有力な商人にも依存度を強めていくことになる。
 天保三年(一八三二)二月、地頭役所は勝手向賄いを「若狭屋新兵衛」にたって頼みこみ、「月々賄金通帳面」をもって出金を願うことになった。この若狭屋は板倉屋と同じように、すでに文政期に多大の借財を依頼してきた商人である。若狭屋へ依頼した出金の返済は一か月一五両に付一分の利息を加えて、知行所村々が返済する約束であった。その返済方法は、畑金は七月十日期限で六〇両、秋成金は九月二十日を期限に六〇両、残りは収納米をもって十一月十五日限りとするものであった。つまり、夏成金、秋成金、年貢米の収納時期を返済にあてるもので、本来地頭役所へ納められるはずの年貢米銭が、そのまま商人のもとへ借金の返済として納められるのである。
 翌三月、知行所村々と若狭屋新兵衛との間で、月々賄金の「議定書」が結ばれた。それはⅦ-4表のように三月から十二月まで一八七両二分になるものであり、返済方法は先に述べたように年貢米銭の収納にあわせて返金するようになっていた。月々の賄金は原則として一一両と定められたが、おそらく地頭屋敷では一か月にこれ以上の賄金が必要であったに相違ない。それは、一か月の賄金が一一両では少額すぎるからである。
 

Ⅶ-7図 天保3年の議定書(新井清氏蔵)

Ⅶ-4表 月々賄金
 3月51両(11両賄金 2両法事料 38両給金)
 4月11両賄金
 5月  〃
 6月  〃
 7月22両2分(12両2分賄金 10両付届け)
 8月11両賄金
 9月29両(11両賄金 18両給金)
10月11両賄金
11月15両賄金
12月  〃
合計187両2分
天保3年3月「議定書」(新井 清家文書)


 
 こうして商人へ賄金を依頼することは、結局知行所村々の年貢収納がその返済に当てられることであって、知行所の負担が前提となっていることである。天保期の不作、凶作状況の中で困窮する村々は、地頭役所の出金申付けに対し抵抗が強まった。