同年十一月六日にも、本石下村、金田村、戸室村、牧西村、矢那村の五か村は地頭役所に対して興津兵左衛門家若殿様の、村方への数年来の長逗留を訴え、屋敷へ帰ってほしい旨を願い出た。それによると、若殿はどの村に居たのかよくわからないが、おそらく新井家の屋敷や、他の名主宅に長逗留し続けていたものと思われる。若殿の帰館は小前末々の者まで願うところであり、年来、「神願に訴え奉り」おるところであり、帰館されることは「闇夜に燈火を得た」ようなものだといっているので、村々にとっては若殿の長逗留はかなりの負担になっていたものと思われる。この帰館願いには、若殿の帰館と、家督相続が春になれば御勝手向きのためにならないので、今年の冬の内に家督を相続されることを願うなど、知行所村々の強い態度が示されている。
凶作の続いた天保五年二月十六日、知行所村々の百姓代たちは、地頭の借財割合出金を拒否する旨を金田村角田勘三郎と本石下村新井五郎左衛門へ申し出た。村々の百姓代たちとは、金田村の友吉、戸室村の九右衛門、七沢村の又五郎、牧西村の万吉、本石下村の作右衛門であり、ほかには中村組頭千松、矢那・有吉村代兼組頭与右衛門たちであった。百姓代たちが拒否したのは、暮し方飯米と雑用の出金以外の出金であった。
本石下村ではこの事と関連して同月に、百姓代作右衛門以下四七名の小前の者たちが、村役人に対して先納金割合の一切の出金拒否を決めた。これを決めた書付けによると、新井五郎左衛門が出府の節に多額の先納金を申付けられた。それを拒否すると、今度は村方百姓代が呼び出されることになったので小前たちと相談した上で、稀な凶作の中でありながら、地頭所からは夫喰手当も何一つ出されていないことなどから、先納金の上納を拒否したものであった。
Ⅶ-8図 天保5年出金拒否の文書(新井清氏蔵)