幕末の世相の中で

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この後も、本石下村をはじめ知行所の村々へは種々の出金申付けが続いた。その中にはペリー来航以後の軍備強化の動員や臨時の入用金、武器修繕のための入用金徴収なども含まれていた。
 嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは四隻の黒船を率いて浦賀に来航した。このペリーの開国要求以来、諸大名や旗本へは軍役動員が課せられた。興津氏はこの時、大手詰が命じられ、人足として石下より七人の者が六月十二日にはもう徴発されている。さらに十一月二十日には「黒船渡来に付き御入用金」として、一〇〇石に付二両の割合で知行地の村々へは賦課され、その合計四三両が六月十四日に、日野屋茂右衛門より操替出金された。同時に地頭屋敷替えに関する普請不足金として一軒に付二朱ずつ出金することも申付けられ、合計三八両の上納も命じられた。
 嘉永七年一月十六日、ペリーは七隻の軍艦を率いて再び来航した。神奈川において幕府側と開国交渉に入り、三月三日に日米和親条約の締結を行なった。
 この一月の来航で江戸は大混乱となったが、地頭所からは本石下村の次兵衛悴清十や清兵衛悴清八など、合計一〇人の者に人夫として蓑笠持参で出頭するように申渡しがあった。これはペリー来航三日後の一月十九日のことであった。
 さらに三月になると、地頭は「異国船渡来につき武器取繕いその他入用金」として、一〇両を新井五郎左衛門に無心している。同じく閏七月には石下の日野屋茂右衛門に、知行所村々が一〇〇両ほどを「武器取繕金」上納のためとして、前年十二月に借りたが返済できずに、三か年賦返済を申入れている。
 安政五年(一八五八)には「永世武備非常上下備金仕法」により知行所村々は一〇〇両の上納を申付けられるなど負担は続いていた。
 

Ⅶ-9図 安政五年「永世武備非常上下備金仕法」(新井清氏蔵)

 結局、明治維新を迎えるまで興津氏の支配は続くが、慶応四年(一八六八)六月には知行地が上知となった。しかし、上知に際し困窮する地頭に対して、知行所一二か村の村々はこぞって以後三か年の賄いとして米五〇俵、金七五両を上納した。これはそれぞれの村が高割りで負担したものだが、そのうち石下の三か村は米一七俵余と金二五両余を負担していた。