村方騒動と農民闘争

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農村荒廃が進行するにつれて、村落内部も激しく動揺するようになった。名主を始めとする村役人層と一般の百姓、つまり小前百姓層との対立や、村役人層の不正を追及する動きが顕著になってきた。また、小前百姓層が先頭に立って年貢減免等を要求する訴願闘争が展開されるようになった。
 安永七年(一七七八)杉山村では、前年の田畑勘定をめぐって、惣百姓(小前百姓)が村役人に対し勘定の仕方に誤りがあるのではないかと追及した所、村役人は根拠もないことを主張するとは、我々を軽んじているとして態度を硬化させ、領主の旗本森川氏に相手方惣百姓の召喚を訴え、事実の糾明を願い出るに至った。この一件は、向石下村名主治兵衛等が扱人となって仲裁に入り、田畑の勘定や潰百姓分の土地管理等に細かな規定を設けて決着したが、村政における惣百姓の発言力の伸張と、これに危機感をいだいた村役人層の対応が象徴的に示されている一件である(増田務家文書)。もはや惣百姓を無視しての村落運営は不可能な程、彼らは村内における発言力を増していたのである。そして村役人層には、彼ら惣百姓層を納得させることのできる「民主的」な村落運営と、指導力が要求されるようになったのである。
 しかし、杉山村の「村政民主化」への道は険しかった。文政元年(一八一八)同村名主伊兵衛と、同村百姓又兵衛ら小前百姓との間で、拝借金の配分と利用をめぐって対立が生じた。伊兵衛や百姓代三郎兵衛らは、村内の困窮を危惧し、出府して拝借金願いを提出しようとしたが、又兵衛ら小前百姓は、伊兵衛ら出府した者たちだけが拝借しようとしているのではないかと解釈し、村内の念仏堂に寄合い、伊兵衛らの拝借願いを阻止するべく出府しようとし、出府費用を徴収するに至ったのである。
 この一件は、誤解がさらに大きな誤解を生み、一層混迷の度合いを深め、当事者同士の以前からの反目が火に油を注ぐ結果となった。又兵衛ら「小高之百姓」たちが用水路普請人足等の諸役は、今後は一切「高持百姓」たちが引き請けるべきだと主張しているとの風聞が伊兵衛に伝わった。彼は又兵衛を村内騒乱の張本人と決めつけ、今までの村内における又兵衛の行動を激しく非難し、今後の村落運営には責任が持てないとして領主に名主退役を願い出るに至った。しかし事態を重くみた同じ旗本森川氏知行所の「御用元」を勤める隣村向石下村名主治兵衛が扱人として仲裁に入り、落着することができた(増田務家文書)。結果的には名主伊兵衛が責任をとる形で名主役を退役し、又兵衛ら小前百姓層が勝利したのである。
 文政六年(一八二三)には、隣接する篠山村でも名主の不正が追及される一件が発生した。同村名主平兵衛が同村百姓源左衛門・五左衛門両名から「御年貢筋私欲押領」の疑いがあるとして訴えられたのである。この一件も吟味中に向石下村名主治兵衛が仲裁に入り、名主平兵衛の年貢勘定等の取り扱いに不始末があったために「私欲押領」と疑われても仕方はなく、今後は年貢勘定等に気を配り、帳面にも正確に記録することで決着することになった(増田務家文書)。
 

Ⅶ-14図 名主の不正に関する史料(増田務氏蔵)

 このような農村荒廃の影響を最も受けていた小前百姓層は、何とか自分たちの意見を村政に反映させて生活基盤の確保に努めようとした。多くの村々では、名主を始めとする村役人層と小前百姓層との対立や、村役人層の不正等を激しく追及・糾弾する村方騒動が顕在化していった。そしてついには、小前百姓層が先頭に立って、年貢減免等を要求して行動する村々も現れたのである。
 文化十四年(一八一七)上石下村・中石下村両村の農民三九名は、「御年貢増米難儀の由は難立筋之処、御引方願の儀、村役人共へ申立候得共不取上候」という状況になったため、所轄代官吉岡次郎右衛門支配下の中妻村(現水海道市)や、遠く常陸国河内郡生板村(現河内村)鍋子新田(同上)、大徳村(現竜ケ崎市)、宮淵村(同上)の農民たちとともに、江戸の吉岡邸へ年貢減免を要求する門訴を行なった(『生板の三義人』)。
 しかし、年貢減免は聞き入れられず門前払いとなった。ついで生板村の万平・市左衛門・与五左衛門の三名は勘定奉行所に訴え出たが、御法度の越訴であるとして江戸小伝馬町への入牢を命ぜられてしまった。その後、万平ら三人は代官吉岡、ついで勘定奉行所での吟味を受けたが、裁決を待たずに獄死してしまったのである。獄死した三人の行動は、彼らの村々では義民として称えられ、文政六年には生板村の妙行寺に三人の供養塔が建立され、義民として永く顕彰されることになった(『生板の三義人』)。
 なおこの一件の処罰は、先に吉岡邸への門訴に参加した村々にも波及した。翌文化十五年二月二十一日、上石下村太右衛門外三〇名、中石下村安兵衛外七名に対し、勘定奉行服部伊賀守は「一同急度御叱り」という軽い処罰を下した。他の参加した村々では「過料銭」や「手鎖」といった処罰を受けた農民が多かったにもかかわらず、「御門訴致候処、利害被仰聞候に付、引退候上心得違の旨相弁、願筋相止め候」という行動自体に、情状酌量の余地があると判断されたのである(『生板の三義人』)。
 この一件に関する史料が伝存されていないため、これ以上は明らかではないが、上石下・中石下両村の場合、近くの中妻村とはとくに連絡を密にしたと思われるが、門訴に参加した太右衛門・安兵衛ら小前百姓は、年貢減免願いを村役人層に申し入れても取り上げられないため、門訴という実力行使に訴え、それも遠くはなれた常陸国河内郡の村々と連合して行動した意義は大きい。