寛政年間の江連用水再興運動

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江連用水の名は、その取入口が下野国芳賀郡上江連村(現栃木県二宮町)地先の鬼怒川に設けられていたことに由来する。享保十一年(一七二六)大宝平沼・江村沼・砂沼の干拓に伴い、井沢弥惣兵衛の設計・監督のもとに、代替用水として開削された。井沢は飯沼干拓にとどまらず、近隣の沼々を干拓して多くの新田を造成していったのである。しかし、この時点での江連用水は、あくまでも大宝平沼・江村沼・砂沼のいわゆる「三沼溜井」の代替用水であり、灌漑地域は「三沼溜井」に依存していた常陸国真壁郡西南部と、下総国豊田郡北端部の村々であった。しかし、明和年間から安永年間頃になると取水源である鬼怒川の水位が低下し、江連用水は同じ鬼怒川から取水していた、中居指・本宗道・原・三坂のいわゆる「四ケ所用水」ともども取水が困難となり、村々の多くは用水不足に悩むようになった。加えて天明三年(一七八三)の浅間山噴火に伴う降灰や相つぐ鬼怒川の洪水によって、耕地のみならず取水施設や用水路も大きな被害を受け、改修は困難をきわめた。このような状況下、用水不足に悩む村々は行動を開始した。
 天明年間先ず江連用水組合の村々は、すでに用水としての機能低下が著しい江連用水を廃棄し、旧来の大宝平沼・江村沼・砂沼の「三沼溜井」を再興することを願い出た。ついで寛政元年(一七八九)一月十七日、老中松平定信への駕籠訴を決行し、何とか事態を打開しようとした。駕籠訴を決行した農民たちは処罰されることもなく、その筋へ改めて訴願するように申し渡され、勘定奉行所へ訴状を提出し、幕府役人の実地検分実施という確約を得ることができた。寛政三年「三沼溜井」の復興は、百姓役自普請で行なうことを条件に「三沼溜井」復興と江連用水の廃棄が認められ、江連用水は開削されてからわずか六〇余年で、用水としての機能を停止するに至ったのである。
 

Ⅶ-15図 江連用水旧水路(石下町内)

 一方、下流に位置する中居指・本宗道・原・三坂の各用水組合は、鬼怒川以外に主要な用水源を持たなかったから、用水不足はより深刻な問題であった。寛政元年八月、まず中居指用水組合一四か村は、取入口を中居指村地先から上流の前河原村(現下妻市)地先へ変更したいと訴願した。これに対し幕府は、訴願の主旨を認めず、既存取入口周辺を改修したのみであったので、同組合は寛政四年四月、植付けのために二〇日の間、鬼怒川に堰を設けて取水したいと訴願した。しかし幕府は、堰は舟運に支障を与えるとして認めなかった。ここに至り、中居指用水組合は、より本格的、かつ具体的な計画を立案した。
 同年八月、先の「三沼溜井」復興の結果、廃棄されていた江連用水の長大な水路に着目し、この水路を利用して中居指用水へ掘り継ぐことを訴願するに至ったのである。ここに始めて、江連用水を再興し、下流の「四ケ所用水」へ掘り継ぐ計画の原案が作成された。つまり江連用水再興運動が開始されたのである。
 さらに同六年九月には、中居指・本宗道・原・三坂の「四ケ所用水」組合は、連合して江連用水を再興し「四ケ所用水」へ掘り継ぐことを訴願した。この訴願には、下総国豊田郡の内、五六か村が参加し、規模的にも訴願内容的にも「郡訴」に近いものであった。この結果、幕府役人の実地検分が実施されたが、その最中、本石下村と三坂村(現水海道市)が江連用水再興に反対を申し立てるという事態が発生した。両村の反対理由は、第一に、江連用水再興と「四ケ所用水」への掘り継ぎによって、低地が水損を受ける恐れがある。第二に、江連用水再興は、大幅な経済的負担の増加が予想される。第三に、両村とも既存の用水でもさして不自由ではなく、江連用水再興は緊急を要しない。第四に、以上の三点から江連用水再興には小前百姓層が同意していない、というものであった。
 このように寛政年間の江連用水再興運動は、「郡訴」に近い盛りあがりを見せたにもかかわらず、願い村々一同の合意がなされていないことを理由に、挫折を余儀なくされてしまった。しかし願い村々における利害対立の他に、挫折を余儀なくさせた要因として、村々における村役人層と小前百姓層との対立・矛盾があげられる。たび重なる訴願にもかかわらず、事態が一向に好転せず、訴願費用や既存用水の修繕費用等の負担増加が小前百姓層に重くのしかかってきた。さらに「村々小前百姓一同相願、村役人共等閑ニも致置候ハヽ、村々小前百姓一同挙て御願ニも罷出可申趣」という状況がみられ、村役人層への批判・不信感も根強かったのである。この結果、村役人層は、江連用水再興を早急に実現させようとするあまり、各用水組合や村落間の利害調整を十分にしないまま、訴願を行なってしまったのである。この結果、反対を申し立てる村が現れるに至り、訴願を挫折させてしまったのである(「江連用水詳説」『江連用水誌 前編』『糸繰川史』)。