文政年間の江連用水再興運動

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寛政年間の江連用水再興運動が挫折した結果、「四ケ所用水」組合の村々は、既存の用水を修繕して利用していたが、文政四年(一八二一)に近年稀な旱魃に直面した。この結果、江連用水再興運動が再開されることになった。
 当初の訴願は、寛政年間の訴願と同様な内容で行なわれている。同年八月、再び鬼怒川に堰を設けて取水したいと訴願したが、寛政年間と同じく舟運への支障があるとして却下されている。続いて同年十二月、江連用水の再興と「四ケ所用水」への掘り継ぎを訴願している。ここで注目すべき点は、寛政年間も文政年間も江連用水再興訴願に先立って、鬼怒川への堰構築を訴願していることである。この訴願は、幕府は当然、鬼怒川舟運への支障という点で認めまいと予想し、いわば次の訴願を受理させるための牽制策でもあったと考えられる。しかし、この巧妙な訴願戦術も効果なく、いずれもが却下されてしまった。
 同五年四月今度は、江連用水の取入口を下流の常陸国真壁郡伊佐山村(現下館市)地先に変更して、同用水を再興する計画を立案し、何とか局面を打開しようとした。しかし伊佐山村地先の現地測量の結果、取入口予定地が逆勾配であることがわかり、再び上江連村地先から取水する計画でもって、江連用水再興を訴願したのである。江連用水筋村々の同意もとりつけ、用水再興は軌道に乗るかに見えた。しかし、再び地域的利害の対立が表面化し、三坂村は冠水の恐れを訴え、原用水組合の内一〇か村(原宿・上石下・本石下・中石下・新石下・東野原・大房・山口・平内・収納谷)と、本宗道用水組合の内八か村(小保川・若宮戸・原・羽子・伊古立・長萱・鯨・渋田)は、耕地の立地条件から冠水の恐れが多分にあるため、江連用水の再興と各用水への掘り継ぎに反対した。この結果、翌六年一月、またしても江連用水再興の訴願は却下され、用水再興派の結束も危くなってきた。
 この事態の急激な悪化に際し、用水再興派の指導者である豊田村名主又五郎・加養村(現下妻市)名主儀右衛門・三坂新田(現水海道市)名主周助の三名は、難局を何とか打開するべく、同年五月三日周助宅に集まり、三名の間で議定書をとりかわして結束を強め、以後は三名それぞれ生命財産をなげうっても江連用水再興を成就させる決意を固めた。五月十二日、周助と樋橋村(現下妻市)幸右衛門の両名は、江戸城和田倉門外において、登城途中の老中水野出羽守忠成に対し、江連用水再興を訴える駕籠訴を決行するに至った。両名は水野邸に引き取られ、水野出羽守が帰宅した後、それぞれの知行所の領主である旗本石谷氏と大河原氏の屋敷に訴状と共に引き渡された。そこで両名は領主の内意を探った結果、領主から幕府への進達が許可され、さらに石谷氏用人有竹平右衛門が関係領主への交渉にあたることになった。
 駕籠訴は受理されなかったものの、個々の領主の江連用水再興への同意を取りつける契機になったのである。同年九月には、又五郎・儀右衛門・周助の三名は、用水再興派二八か村から願惣代としての委任状を取りつけ、江連用水再興運動の指導権を掌握することができた。翌十月、二八か村は改めて江連用水再興を出願し、十一月十日、関係領主から勘定奉行村垣淡路守へ進達がなされ、同月二十四日には実地検分が認められたのである。翌文政七年九月になり幕府御普請役の測量が開始されたが、これと並行して願惣代三名を中心にして、関係諸村との交渉や用水再興反対派への説得工作が熱心に行なわれた。とくに用水再興に強く反対する原・三坂の両用水組合村々に対しては、再三にわたって用水再興運動への加入を勧めている。九月二十八日には、本石下・上石下・中石下・新石下の四か村役人を集め、加入を勧めたが拒絶されてしまった。翌二十九日、原・三坂両組合村々を召喚して加入を勧めたが、いずれの村々も冠水の恐れがあるとして反対したため、原・三坂両組合を除外するならば、何ら用水再興に反対しない旨の請書を提出させて加入交渉を打ち切り、今後は両組合を除いて用水再興にあたることとなった。
 同年十月、願惣代三名は局面打開のために「皆御入用御普請」、つまり全額幕府負担での用水再興を出願したが却下された。ついで十一月には、一歩退いて、一部村負担の半官半民方式を出願した。翌八年三月、願惣代儀右衛門は苗代の水に事欠く現状を訴え、早急に用水再興を認可してほしいと出願したが、却下されてしまった。
 

Ⅶ-16図 移転前の江連用水記念碑と水神宮

 事態は一向に好転せず、村々をとりまく諸情勢にも厳しいものがあったが、新たに豊田村を加えた二九か村の村々はますます結束を強め、執拗に出願を繰り返していった。文政十年十二月、二九か村惣代として上蛇村(現水海道市)名主伊右衛門、柳原村(現下妻市)名主栄助の両名が出願した江連用水再興願いは、ついに実地検分実施の許可を得ることができた。翌十一年一月から、江連用水筋の測量が開始され、同年十二月二十八日、念願であった全額幕府負担による江連用水再興が正式に認可された。翌十二年一月九日には、願いの村々から一六名の普請惣代が選出され、いよいよ着工される運びとなった。
 一方、用水再興の正式認可の機会をとらえて、再び未加入の村々への加入説得がなされている。説得には幕府御普請惣見廻役の市村宗四郎があたり、まず若宮戸村、ついで原・三坂両組合への説得がなされた。市村宗四郎は宿舎の新石下村名主藤三郎宅に、原・三坂両用水組合村々の村役人全員を召喚し、加入を勧めたが、まったく応じようとしないので「以来旱損に付御検見等相願申間敷」との請書を提出させ、若宮戸村と共に捨て置かれることとなった。四月二十日、工事は一応竣工したが取入口周辺の測量の失敗から用水が逆流する始末であった。
 同年五月、市村宗四郎の総指揮のもと、再測量が行なわれ、やり直しの突貫工事が夜を日についで行なわれた結果、六月二十九日に待望の開樋式を迎えることができた。しかし、願惣代や普請惣代らは休むひまもなく、早速、用水路の修繕や用水管理規定の作成にあたらなくてはならなかった。また、費用の決算等、むずかしい問題を解決しなければならなかった。事実同年九月、願惣代の一人である加養村儀右衛門と普請惣代柳原村栄助らとの間で、立替金の精算をめぐって出入訴訟が発生したが、豊田村又五郎が仲裁に入って決着することができた。同年十一月には、用水管理規定が定められ、用水小組合の設置と年番惣代制が採用された。
 また、用水路の修繕費用には幕府からの拝借金を充てることにし、同年十二月に拝借金願いを出願し 翌文政十三年二月から拝借金三〇〇〇両をもって修繕が始まり、四月には完了することができた。同年七月文政四年以降の出願費や潰地代金等の諸経費の決算書が出来上がったが、小保川、田下(現千代川村)、下栗(同上)、唐崎(同上)、鯨(同上)、新堀(現下妻市)、福崎(現水海道市)、福田(同上)、中山(同上)、沖新田(同上)の一〇か村から、決算に不正の疑いがあるとの訴訟が提起された。
 この一件は、川尻村(現八千代町)新右衛門と皆葉村(現千代川村)市右衛門が仲裁に入り、天保二年(一八三一)四月になってようやく落着することができた。また、文政十三年=天保元年十二月、工費の剰余金五〇〇両を用水維持基金にすることが決定した。江戸猿屋町会所に預金し、年八分の利子を今後の自普請費用の一部に充てようとするものであった(「江連用水詳説」、『江連用水誌 前編』)。