天保年間の江連用水

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原用水組合一一か村と三坂用水組合三か村は、再三にわたる用水再興派や幕府役人の説得にもかかわらず、耕地が冠水する恐れがあるとして、江連用水への加入を拒み続けてきた。しかし、次第に原用水と三坂用水とも用水量が不足するようになった。天保二年(一八三一)七月、若宮戸村百姓六郎兵衛と悴繁次は、用水不足に悩む原宿・本石下・上石下・中石下四か村の依頼を受け、小保川前の関枠(分水施設)を勝手に締切り、四か村の耕地に用水を引き入れるという事件が起こった。
 この一件は、六郎兵衛父子と四か村側が謝罪することで一応解決したが、翌三年七月にも本石下・上石下・中石下三か村が、無断で江連用水から水を引き入れていることが露顕し、三か村役人が糾明を受けるに至った。原用水組合の用水不足は、次第に顕著になり江連用水に隣接する耕地への盗水も、しばしばみられるようになってきた。
 天保八年六月、原宿・本石下・上石下・中石下四か村は、稲の苗が枯死する恐れがある程の日照りが続いたため、再び江連用水からの盗水を計画し、江連用水組合の年番惣代を欺き、地先の江連用水路に仮堰を設けて、耕地に水を引き入れるという事態が発生した。しかし今回の四か村側の行為にも、日照りの連続という情状酌量の余地があったので、江連用水組合側も態度を軟化させ、年番惣代に証文を入れるということで容認している。
 天保九年は、閏四月になっても降雨がなく、苗代や耕作に支障が生じる恐れがあった。原用水組合の内、東野原・大房・山口・平内・収納谷・原宿・上石下・中石下・本石下の九か村は、江連用水組合に対し、金三〇両を支払って余り水の分与を受けることを願い出た。同月二十五日、原・三坂両用水組合への分水は承認されたが、三坂・中妻・新石下三か村は、用水潤沢を理由に分水の必要はないと拒絶した。とくに三坂・中妻両村は、最後まで金銭を支払ってまでして分水を受けることを拒絶したのである。
 一方、江連用水組合側の方でも、鯨・長萱・伊古立三か村は、原用水組合への分水によって、自分たちの村々への用水が不足する恐れがあると反対した。三か村は分水のための掘割工事を妨害し、さらには年番惣代や幕府御普請役に対し暴言をはき、危害を加えようとするまで拡大していった。三か村は、他の村々へも廻状で参集を求め、掘割工事を計画した年番惣代らを糾弾するため出訴を決定したが、見田村(現千代川村)長左衛門・本宗道村新三郎らが仲裁に入り、原用水組合から諸雑費として趣意金を支出させることで事態解決を図った。原用水組合は、江連用水組合からの余り水分与を受けるとともに、ようやく用水不足を実感し天保九年閏四月十二日、ついに江連用水組合への加入を出願し、同年七月には三坂用水組合三か村を加えた一四か村が、江連用水組合への加入を出願するに至ったのである。同年八月原・三坂両組合の加入が承認され、十月からは掘り継ぎ工事の測量が開始され、翌天保十年(一八三九)二月から工事にとりかかり、四月には掘り継ぎ工事も竣工した。これによって江連用水再興は完全成就し、旧江連用水と中居指・本宗道・原・三坂の旧「四ケ所用水」は真に一本化され、灌漑する村々は四五か村に及んだのである。
 しかし、こうして様々な障害を乗りこえて竣工した江連用水は、長大なるが故、維持・管理するにも多くの費用と労役を必要とした。天保十年十月晦日、先に加入したばかりの旧原・旧三坂両用水組合は、早速旧用水路の拡張・浚渫工事の全額幕府負担を要求し、平内村名主半兵衛が老中水野越前守忠邦へ駕籠訴を決行した。半兵衛は一時「宿預」の処分を受けたが、すぐに帰村を許された。しかし全額幕府負担の要求は受け入れられず、一五か年賦で幕府拝借金一〇〇〇両が貸与され、翌十一年三月一日から工事が着工された。同年四月旧原・旧三坂用水組合が、江連用水組合に加入する際支払うこととなっていた趣意金をめぐって、旧原・旧三坂用水組合と江連用水組合村々との間で、訴訟が提起された。
 このように用水再興後も、江連用水の維持・管理や用水組合の運営をめぐって、様々な問題が起った。組合村々および農民たちは、これらを克服する過程で広範な地域社会の連帯を生み出していった。この意味で江連用水再興運動は、近代へのあゆみを前進させる駆動力になったのである。(「江連用水詳説」『江連用水誌 前編』『同 後編』)。