黒船の来航

645 ~ 646 / 1133ページ
嘉永六年(一八五三)六月三日晴天の午後、国籍不明の四艘の黒船が浦賀沖に威容を現わした。この艦隊を最初に確認した幕府の記録には、およそ三〇〇〇石積(実際は二〇〇〇トン級)ほどの舟四艘が、帆柱三本ずつありながらも帆は張らず、前後左右自在になり、風や浪に向うのにも帆はかけず、あたかも鳥の飛ぶごとく疾走して、たちまち見失ってしまった、と記されている。
 大型船の建造が幕府によって禁止されていた当時、国内最大の船は「千石船」とよばれた一〇〇トン級の一枚帆の木造船である。鎖国のなかにある日本人のこうした常識をはるかに破った黒船は、千石船の約二〇倍をほこる巨大さと、蒸気の力で疾駆する「火輪船」(外輪船)であった(加藤祐三『黒船前後の世界』)。
 
  「泰平の眠りをさます上喜撰(上等の煎茶を蒸気船にかける)たった四はいで夜もねむれず」
 
 浦賀(神奈川県)を震源地とする当時の人々の驚愕と世相の動揺は、海外からの情報洪水のなかに身をおく現代のわれわれの理解を絶するものがあった。黒船来航の事件以来、二五〇年にわたる徳川家中心の幕藩体制は、一挙に諸矛盾を噴出し、顕在化する社会不安のもと、人々は上を下への騒擾の渦のなかに巻き込まれていく。
 こうして動きだした社会の諸相にのって、政治の舞台では鎖国攘夷や開国通商の議論が大いに沸騰する。この議論はさらに、尊王という新しい統一国家を指向する価値観の模索と、佐幕という伝統的な価値観への執着との葛藤、対立へと発展していき、為政者である武士階層の観念のなかで複雑に交錯しあう。しかし時代はとどまることなく、確実に新しい社会の到来を余儀なくしていった。
 

Ⅷ-1図 黒船の図(新井清氏蔵)