幕政の実権を握っていた老中阿部正弘は、早くから対外問題に深い関心をよせていた前水戸藩主徳川斉昭を、七月三日に海防参与として幕閣に登用した。斉昭は、当時藩の内外から攘夷論の巨頭と仰がれていたが、早速国防の基本方策を対応に窮する幕閣に進言している。その考えは、アメリカの艦隊に対抗するだけの武力のないことを十分承知した上で、できるだけ外国との交渉を長びかせて、その間に武備充実と挙国一致体制とをとろうとするものであった(『茨城県史近世編』)。
安政元年(一八五四)一月十六日、ペリーは七艘の艦隊を率いて約束どおり再来航し江戸湾深く羽田沖まで進んだ。黒船の砲門ににらみすえられた幕府は、開国を押しつけられ、三月三日日米和親条約一二ケ条を締結する。ペリー艦隊の近代兵器に圧倒された幕府は、安政の改革を実施していく。この改革には斉昭の声が多く採用され、人材登用、大奥改革のほか、伊豆韮山への反射炉(大砲鋳造のための溶解炉)建設、大船建造禁止の解除、江戸湾に台場(砲台)建設、海軍伝習所設置など、近代的軍備整備につとめた。