一三代将軍家定は、病弱で嗣子がなく、近親者以外のものに会うことも嫌う人柄であった。将軍に実子がないときには、御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)のなかから適当な人物が、将軍職を相続することとなっていた。嘉永六年当時、適当な候補者といえば、斉昭の第七子で一橋家主である一橋慶喜(一七歳)と、紀州藩主徳川慶福(八歳)の二人であった。慶福は将軍家定とは従兄弟の関係にあり、血統からいえば慶喜よりもはるかに近かった。ところが、平時の世の中ならともかく、ペリー艦隊来航以来の未曾有の国難に対応できる人物として取り沙汰されたのが慶喜であった。
将軍継嗣問題に対応がはやかったのは一橋派グループで、実父にあたる斉昭は勿論、老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、越前福井藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信ら外様大名を中心とする人達だった。これに対抗する南紀派のグループが結成され、紀州藩の付家老の新宮城主水野忠央、彦根藩主井伊直弼、さらに大奥など幕府主流派を集めていた。