井伊大老の独裁

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幕府は内に将軍継嗣問題、外に通商条約勅許問題という内憂外患を同時に抱え込んでしまった。この難局に瀕する現状の荒療治者として登場するのが、南紀派の中心的人物、彦根藩主井伊直弼である。井伊は安政五年四月に大老に就任すると、六月十九日には勅許ないまま日米修好通商条約の調印を断行、同月二十五日には将軍家定の名のもと慶福継嗣決定の発表をする。
 井伊大老により二大懸案は解決されたものの、政局は一層困迷化し、緊迫度をます。幕府独裁制の維持強化と政敵一掃をはかる井伊は、抗議のため再三登城した一橋派の大名たちを「押懸登城(おしかけとじょう)」の廉で処罰した。尾張藩主徳川慶恕、越前藩主松平慶永に「隠居、急度慎(きっとつつしみ)」、前水戸藩主徳川斉昭に「急度慎」、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜に「登城停止」を命じて、一橋派の活動を封じた。つづいて、井伊は弾圧の手をひろげ、京都にあって工作をおこなっている一橋派の尊攘派志士や公卿を処分していった。これが悪名高き安政の大獄事件であって、切腹・死罪・獄門から隠居・謹慎まで、その断罪者の数は一〇〇人に及び、吉田松蔭・橋本左内といった傑出した人物の死も含まれていた。