「天下未曾有の国難」に際し、政治的発言力をましつつあった孝明天皇は、井伊大老の独裁専制に強く反発した。事態逼迫のために勅許なきまま条約を締結したとの幕府の事後報告に、天皇は「神州の瑕瑾(かきん)(きず)」と激怒、譲位の決心までした。天皇は幕府と水戸藩に対して破格の勅諚(天皇の命令)をだし、条約調印と御三家等の処罰を責め、幕府は御三家以下諸大名と群議して、国内の治安を整えて外国の侮りを受けぬように方策をたてるよう命じた。
この勅諚に勇気づけられたのは、尊攘派の志士たちである。安政の大獄事件の翌万延元年(一八六〇)、井伊直弼の独裁専制と志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫した。「除奸」、すなわち奸物井伊直弼を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士の間で進められた。
三月三日上巳の節句の日(陽暦三月二十四日)、春には珍しい大雪の日であった。水戸藩を脱藩した関鉄之介・斉藤一徳ら一七人と薩摩藩士有村次左衛門の合計一八人は、井伊一行の登城を待った。明五ツ時(午前八時)、直弼の駕籠は総勢六〇余人をひきつれて、外桜田の藩邸を出発、自邸を出てわずかな堀端で浪士らに襲撃された。折からの降雪のため、従士一行は雨合羽を着用、刀には雪水を防ぐ柄袋をつけていたため、少人数の斬り込みに応戦の遅れをとった。浪士隊は直弼の駕籠めがけて何回か白刃を突きさし、井伊大老を死にいたらしめた。それはわずかな時間内のことであり、目的を達成した浪士らは、それぞれに逃走したのである。
一八名の決行隊は、現場で闘死したもの、負傷して自刃、または自訴したもの、逃走潜行したもの、とさまざまであった。江戸城の門前で時の最高権力者が暗殺されてしまうという失態を演じた幕府の浪士探索は、きわめて厳しいものであった。捕縛されたものは次々と死罪となり、明治まで存命したものは二名であった(『茨城県史』)。