渡船場での不祥事

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厳重な取締りをきわめた渡船場であるが、鬼怒川の東西両岸を結ぶ唯一の交通手段だっただけに、当時の人々が日常生活で受けた拘束は大きかった。当時の史料は、一日平均四〇人程度を記録しているが、取締りのない平常時であれば、より多くの地域の人々の利用があったのであろう。さらに史料は、取締り中に発生した二つの不祥事が記録してあるので、その事件の概要を紹介したい。
 取締りを始めて一か月余が過ぎた閏三月十一日の夜八ツ時(午前二時)頃、深笠をかぶり小袴に木綿合羽を着用した侍姿の四人連れが、本石下村の仮見張所船頭弥次右衛門宅へ現れて、船で川を渡してくれるように頼んできた。弥次右衛門は渡船は川向に付き置いてあるのでないと断るが、彼らは猟船で渡してくれと頼んでくる。弥次右衛門は夜の渡船は厳しく禁じられているのでできないと再度断ると、彼らは刀に手をかけ迫ってきた。やむなく、弥次右衛門は使用人の金蔵を使って、彼らを対岸に渡した。
 この事件は、翌日関東取締出役まで報告されている。浪人風情の取締りは厳重をきわめたはずにもかかわらず、身分制社会の世の中にあっては、一人の農民にできることはおのずと限界があった。月日は前後するが、三月十二日には本宗道渡船場取締所から、真壁町より来た八、九人連れの侍が西の方へ通行したとの連絡が入り、石下の取締りも緊張した。
 もう一つの事件は、三月二十二日に起きた。七ツ半時(午後五時)頃、蔵持村の若者長太郎は、西岡田村より渡船しようとした。船頭の丹蔵は、渡船停止の時刻でもあり、ましてや帰りの船はなくなってしまうので断った。しかし、帰りは三坂の渡船場を使うからという長太郎の頼みに、仕方なく渡してやる。ところが、船に錠前をおろした夕六ツ半時(午後七時)、酒気をおびて長太郎は戻ってきて、こともあろうに向岸へ渡してくれと頼みこんできた。勿論、この無理な頼みは断られ、はらいせに長太郎は春先の渇水期の浅瀬を歩いて渡った。そこに、吉野村(現水海道市)名主伊左衛門が、向石下村名主治兵衛宅へどうしても出向かなければならぬ急用をもって現われ、船頭丹蔵は船をこぎだして向岸へつけた。そこには、先ほどの酩酊した長太郎が待ちかまえており、己れの非を忘れて、船頭に罵詈雑言をあびせかけ、ついには穀物集め(各戸より船頭に年二、三度渡した米麦類)の際には一切さしださぬと啖呵をきった。この傍若無人な長太郎の言動を聴きつけた両村の村役人は、「酒狂の上、全くの心得違の始末」との詑び状を本人ならびに父親・親類からとりつけ、厳重注意を与えている。
 この事件などは、渡船場取締りが周辺村民の日常生活を、息苦しい方向にもっていった一例といえよう。
 桜田門外の変の思いもせぬ余波をうけた鬼怒川筋の渡船場取締りも、八月には通常渡船となった。しかし、幕末の石下にとって、この事件は動乱の幕明けを告げるものであって、この後も次々と人々に混乱と不安とが襲いかかってくる。