コレラ大流行

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黒船来航以来、大きく揺れ始めた幕末の政局は、石下地方までを巻き込み、桜田門外の変以降も鎮静化のきざしはなかった。江戸からそう遠くないこの地方に住む人々に襲いかかってきた次の不安は、コレラの大流行であった。
 安政五年(一八五八)五月、まず長崎の出島にコレラが流行し、さらに六月下旬には東海道筋、七月には江戸に入ってきた。人々がころり、ころりと死んでいくので「コロリ」とか、吐いて死ぬので「暴瀉(ぼうしゃ)病」とかいわれた。この大流行で、ほとんど対策も知られていなかったために、江戸市中は惨状を呈した。あらゆる疫神退治の祈りがおこなわれたものの、葬具屋の棺製造がまにあわないなどと、真顔で話し合われたりもした。
 江戸での大流行をうけて、九月には「コロリを除く御達書」が、村々に届いた。その治療法とは、体を冷すことなく腹に木綿をまき、大酒大食はしない。もし病にかかった場合には、床に入り飲食を慎しみ、体を暖める。桂枝、益智、乾姜を調合した芳香散という薬を飲んで、治癒したものも少なくない。吐瀉の激しいものは、焼酎一、二合の中へ樟脳一、二匁を入れて温め、木綿布にひたして腹や手足に小一時間もはっておくこと、という怪しげなものであった。
 しかしその治療のかいなく、文久三年(一八六三)五、六月には、石下・向石下・小保川・新宗道・鎌庭などで大流行し、多数の犠牲者をだしている(長塚幹之助家文書)。