太平山の隊は、五月三十日には下山して、再び筑波山に根拠地を置くこととするが、その勢力は七〇〇人にもふくれあがっていた。隊の軍資金や兵糧米の徴発のため、水戸藩野口郷校出身の田中愿蔵らの強盗まがいの振舞がめだちはじめ、民心は天狗党から離れ、恐怖心のみがひろがっていった。隊の定めた軍令第九条「民家を放火し貨財婦女を侵掠する事と民を妨げる事」の禁令は空文化し、「水戸ノ天狗ニ逆ラフ奴ハ出ラバ出テ見ロブッ殺ス」との傍若無人な横行が目にあまるようになっていった。
再び筑波に拠った天狗から、六月十六、十七日石下へ差紙が届く。要求の金額は、古間木村天満屋与三兵衛と鴻野山村同出張所に金二〇〇両、向石下村貞一郎と周作に金八〇両、中沼新田小右衛門に金六〇両であった。一同は早速筑波山に出掛けて、金子を差しだしている(秋葉光夫家文書)。
同月二十五日の夜には、筑波勢七、八〇人が宗道河岸に現れ、馬五〇〇匹と人足若干の徴発を近在数ケ村に触れあてた。夜四ツ時(十時)頃からは、森新三郎方の土蔵を開かせて、米数一〇〇〇俵を高道祖村まで運ばせ、そこから別の人馬で筑波へ送り届けるよう命じている。また、一行のうち一四、五人は鬼怒川を渡り、佐野村(現八千代町)などで金子や米の強奪をおこなっている。
こうした横暴の指揮をとったのは、高橋上総介、渡辺霞湖之介、宇都宮左衛門と名のる連中であったが、二十七日には高橋ら二、三〇人が石下にも現われた。彼らは酒造業日野屋へ押し込み、土蔵を改めて米三〇〇俵をみつけだすと、一〇〇俵は飯米として残して二〇〇俵の献納を命じた。つづいて、薬店平右衛門方へ行き主人が留守とわかると、さんざん言い掛りをつけて、手代と女達を縛り上げて路上にひきずりだし、鉄砲の火縄で古傘一〇本に火をつけて放火すると脅かし、三〇〇両の金子を強奪している。
こうした宗道、石下での筑波勢の乱暴狼藉は、折しも取締りのため江戸を出立して大生郷(現水海道市)に止宿していた代官北条平次郎勢三〇〇人に、宗道村名主善一郎(森)より逐一注進されていた。天狗に対抗する手だてをもたぬ村人達からすれば、この幕府鎮圧軍の到着は、どれほど待ち望んでいたことだったろうか。ところが、幕府軍からはなんの返答もなく、二十八日に陣をひきはらって、知らぬ素振りで山川から結城へと進軍していってしまった。この事態に村人達は一縷の望みを絶たれ、むしろ幕府軍の怯懦に怒りすら感じたことだろう(『天狗騒ぎ』)。