筑波勢による徴発が、六月に入ってから広汎化してくると、幕府は十四日に討伐する方針をたて、関東諸藩に厳重な警戒を命令し、近隣諸藩には追討への援軍を命じた。目付小出順之助以下三〇〇〇人あまりの幕府正規軍は、六月十七日に江戸を出発、同時に水戸藩諸生派執政(家老)の市川三左衛門は、およそ七〇〇人を率いて江戸を出発した。市川軍は水戸に向うが、幕府鎮圧軍と提携しつつ、下妻、下館に軍を配備していった。鎮圧軍の接近を察知した筑波勢は、直ちに応戦の準備に入り、諸隊をそれぞれの部署につけた。
戦端は、七月七日に開かれた。幕府軍二五〇〇人、それに市川軍が加わって、下妻から小貝川を越えて進軍してきたので、筑波勢は高道祖原(現下妻市)で要撃した。その結果、実戦経験の乏しい筑波勢は、敗れて退却した。
緒戦に敗れた筑波勢は、筑波山にて軍議を開き、幕府軍に夜襲をかけることを決める。一方、幕府軍は戦勝に気分をよくして、八日夜には本営を置いた下妻の多宝院で祝宴を張っていた。酔いもさめやらぬ九日未明、地元の地理に明るい飯田軍蔵らが、幕府本営のあった多宝院を急襲して火を放った。幕府軍はなす術もなく大敗し、幕府軍と追討諸藩軍は下妻・下館付近からことごとく退却した。なかでも下妻藩兵は、自分たちの手で陣屋に火を放って逃げだす始末であった(『茨城県史』)。