天狗の筑波下山

661 ~ 662 / 1133ページ
下妻の戦いで勝利をおさめた筑波勢は、再び軍議を開いて、今後の方針について激論をたたかわしている。当初の計画通り、攘夷の実をあげるために横浜へ進撃する点では一決したものの、攘夷の前に水戸藩内諸生派を討つことを主張する水戸浪士と、一刻もはやく横浜進撃を主張する他藩出身浪士とに意見は分れた。さらに、金穀強奪に執念するもの、戦勝を聞きつけて各地から加盟するものも混えて、天狗党は寄合い所帯の弱点をさらけだし分裂した。
 水戸浪士を中心とする天狗党本隊は、筑波山下山後、府中から小川、潮来方面に屯集して、しばしば水戸周辺で諸生軍と戦った。また、他藩出身者を中心とする攘夷先決論者六〇人あまりは、天狗党本隊から離脱していった(『茨城県史』)。
 他藩出身者の例を水野主馬にとってみてみる。主馬は結城藩の名門の一人で、若い頃から非常な読書家であり、かつ武術にも精通していたという。彼が二五歳の時、筑波勢が結城藩に援助を要請してきた。彼は藩内では天狗同情派の一人として、筑波勢援助を主張したが藩論が決まらなかったため、数人の同調者と脱藩して筑波勢に加わった(『結城市史』)。彼は下山後も本隊と行動をともにしており、鹿島、行方方面を転戦していたが、その後仲間四〇人ぐらいのものとともに離脱して、府中、土浦と逃げのびて、九月九日には水海道の渡しを越えて飯沼弘経寺(現水海道市)に一七人の仲間とたどりついた。彼らは敗走してきた疲労感と戦いでうけた深手のために、一日の休息を頼みこんだ。住職は、かねてからの浪士取締りの触れもあり、頼みを断わるが、彼らの懇願に負けて、朝食だけを提供している。
 この一行は、その後古間木・蔵持・杉山へと途をとり、杉山村名主左源太にむりやり道案内させて、鴻野山に出てここで二手に分かれた。一方は岡田から国生へと逃げのびていき、その行方は定かでない。他方主馬らは、東仁連川堤沿いに崎房に出るが、村方の百姓たちに発見されて「戦争」となる。浪人達は平塚新田(現八千代町)まで追いかけられ、途中民家に放火などしながら、築越(つつこし)往来をぬけて東山田村(現三和町)へとほうほうの体で逃げのびている。仲間三・四人となった主馬らは道に迷い、ついには結城まであとわずかな新和田村(現三和町)で見張りのものに捕縛されている(『天狗騒ぎ』、秋葉光夫家文書)。