天狗党の顚末

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天狗党本隊は、十月の那珂湊の戦いでの敗北を機に、自分達の尊王攘夷の素心を京都にのぼって、一橋慶喜を頼り朝廷に伝えるために西上をはじめる。大子(現大子町)に集結した一行は、十一月に入って進軍をはじめ、下野→上野→信濃→飛驒→越前と冬将軍のなか強行軍をとるが、頼みの綱である慶喜が浪士軍討伐の命令をだすに及んで、十二月二十日金沢藩に八二三人が投降する。
 

Ⅷ-6図 天狗行進地図(横瀬夜雨『天狗騒ぎ』)

 天狗が筑波山を去ったあとも、地域の人々の恐怖心は、おさまるところを知らなかった。本石下、西原・上石下では、浮浪人との識別のために各戸に目印、鉢巻が配布され、その合計は目印二七〇枚、鉢巻一八四枚と記録されている(新井清家文書)。また、下妻の騒ぎの七月九、十日の両日、鬼怒川渡船場の取締りが復活している(新井省三『趣味の結城郡風土記』)。