この事件は、関井修氏の『鬼怒川遊俠伝』に詳しいが、鬼怒川を境として、西を縄張りとする古河勢の生井一家、会の川一家と、東を縄張りとする本石下の博徒木村兵助と若宮戸の博徒平塚栄太郎の一家との勢力争いに原因があった。発端は、同年六月末の若宮戸の祭礼の日、会の川一家の二人に兵助の手下十数人が、地蔵岸(興正寺付近の鬼怒川岸)付近で棍棒などで暴行を加えたことにある。
古河勢はこの仕返しを口実に、筑波郡から岡田郡にかけての地域経済の中心的市場となっていた石下への勢力伸張を企てた。十月二十六日には、柿の木(現千代川村五箇)に古河勢一五〇余人が参集し、石下勢との喧嘩出入りにそなえた。しかし、宗道中河岸の船主頭取名主森善一郎のとりなしで、不測の事態は回避された。十一月五日には、仁連宿(現三和町諸川)の旅籠油屋で、両派の仲直りの儀式がとりもたれたが、対立が完全に氷解することはなかった。
そんななか十月十七日、内偵をかねて古河勢七人が石下に遊びにきた。七人とは、釈迦村(現総和町)安田鉄五郎、芦ケ谷村(現八千代町)大久保角之助、大久保源二郎、大堤村(現総和町)黒坂繁造、柳橋村(現総和町)箭田忠吉、江連村(栃木県芳賀郡)関根為三郎、太田村(現八千代町)小野崎幸助の、度胸・腕力にすぐれた俠客達であったという。彼らは、石下の親分兵助宅で挨拶をすませると、勧めに応じて肴屋(本石下八幡神社入口南側にあった小料理屋)の宴席に移った。彼らに警戒心がなかったわけではないが、酌婦や芸者をあげての酒宴が進むにつれて、ついつい酔いに身を任せていった。そして、時刻も深夜一二時をまわるころには、銘々が床に身を沈めていった。
石下の縄張りを死守する石下勢が、この好機を見逃すはずはなかった。あらかじめ肴屋の女中お初と段どりをつけておき、彼女に寝込んだ彼らから脇差し、匕首を取りあげさせた。そのあと、兵助・栄太郎の二人に続いて、喧嘩支度の子分一五人が、七人の寝る二階に闖入した。酒に酔って寝ているところを、不意に斬りつけられたのだからたまらない。七人は口々に「畜生、卑怯だ」と最後の言葉を残して、無惨な横死を遂げていった。
夜が明けてから、兵助・栄太郎らは死体の処理にあたった。七人の遺骸を肴屋の裏手に集め、菰蓆で包んで渡船場近くの通称「馬棄場」に運び、簡単な焼香の後に同所に埋めた。二人は村役人に窮状を訴え、肴屋に強盗が押入ったので斬り捨てた、と役所への報告を作文させている。
Ⅷ-7図 『鬼怒川遊俠伝』表紙
Ⅷ-8図 俠徒七名の碑(明治26年建立)