古河勢の報復

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世相全体が浪人の不法に神経質となっている時だけに、村役人の申開きもたったものの、古河勢の会の川、生井一家が納得するはずがなかった。彼らは、石下の仕打ちがあまりに卑怯なだまし打ちであることに激怒し、非業の死を遂げた同志の復讐を誓い、石下に潜入してきた。
 兵助・栄太郎はこのことを十分承知していたから、兵助は家族を連れて水戸へ、栄太郎は自分の手下の家がある作岡(現つくば市)へ、それぞれ身をかくした。そうとは知らぬ古河勢の刺客は、二人が石下に潜伏しているものと思い込み、発見につとめるが、一向にその所在はつかめなかった。探索のあせりから、彼らは木村姓を名のるものは皆殺しにしてやるとわめき、一般の人々も不安に震え上がった。年の瀬も迫ったというのに、本石下付近の店はかたく戸を閉ざして、出歩く人もほとんどいなかったというから、仕返しの恐しさは格別のものであったのだろう。
一方若宮戸でも、栄太郎の所在は厳しく追求されたが、判明しなかった。栄太郎宅の留守をみていたものに皆葉(現千代川村)出身の兵作という手下がいたが、なんとか報復の実をあげたい刺客たちは彼をその対象に選んだ。十二月初め、深編み笠をかぶった五・六人のものが、兵作のいる栄太郎宅付近を徘徊した。近所の人達が不審に思いはじめた二、三日後、真夜中に栄太郎宅で銃声がとどろき、人声があがったが、誰も近づくものがなかった。夜が明けてから、村人がおそるおそる栄太郎の家を覗きこむと、柱に荒縄で縛りつけられ、斬る突くのめった斬りにされた男の死体があった。しかも、その死体は首が切り落されていて、どこにもなかった。兵作の首は、石下への遺恨を晴らすものとして、殺害者たちによって古河へ運び去られたのである。
 この事件も、村役人たちが協議し、兇悪な盗賊が押入り殺害に及んだ、と代官に報告して処理されている。
 元治元年は、コレラの流行に始まり、天狗騒ぎ、博徒七人斬りとその報復と、生命の縮み上がる事件があいつぎ、石下の人々にとって実に長い一年となった。また幕末の政局は、維新史の先頭を走ってきた水戸藩が、天狗党と諸生党にいう藩内の矛盾対立を止揚することできずに失速、迷走し、同様の矛盾対立を克服できた長州・薩摩など西南雄藩に、時代の主役の座を明け渡すこととなるのである。