慶応三年(一八六七)十月十四日、一五代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表、公議政体論を基本とする新政権下での自らの指導的地位を構想した。しかし、薩長討幕派主導によっておこされた十二月九日の王政復古の大号令と小御所会議での決定は、前記の慶喜の観測を木端微塵に打ち砕いた。征夷大将軍職の辞官と四〇〇万石に達するといわれる幕領の納地の要求は、新政府が慶喜を全く必要としていないという冷酷な宣言でもあった。二〇〇有余年にわたり政権を担当してきた徳川家とその家臣団が、この最後通牒をすんなり受けいれるわけがなかった。
大坂に駐屯していた旧幕府の大軍は、京都をめざして進軍を始め、慶応四年一月三日、ついに京都郊外の鳥羽、伏見で政府軍と武力衝突をおこした。ここに明治二年(一八六九)五月の箱館五稜郭の戦いまでの戊辰戦争が勃発する。
薩摩・長州の猛攻は、旧幕府の誇る洋式兵隊を次々と撃破し、たちどころに政府軍の優勢は明らかとなった。旧幕府軍は大坂城へと退却、慶喜ら首脳部は畿内をみかぎり、同月六日夜には大坂城を脱出して、海路江戸へと東帰した。