石下宿は、水戸街道を小金宿(現松戸市)で左に折れ、日光街道の雀宮(現宇都宮市)にぬける脇往還の途上にあり、政府軍が兵を奥州方面へ展開するに際して通行することとなったのである。
慶応四年の「人馬継立書上帳」より四月・閏四月・五月の三か月間の継立人馬数のⅧ-1表を掲げる。すでに第四章第二節でみたとおり、新石下村は水海道への上り、三石下村(本、中、上石下村)は宗道、下妻への下りの継立を分担しておこなっている。しかし、鬼怒川の流れにそった南北の継立は分業されていても、表からわかるように、脇往還からそれた上郷、吉沼、杳掛、岩井など東西への継立は、明確な分担がないようである。
Ⅷ-1表 慶応4年四石下継立人馬表 |
新 石 下 村(上り) | 三 石 下 村(下り) | 月別合計 | |||||
行 先 | 人足馬数 | 小 計 | 行 先 | 人足馬数 | 小 計 | ||
4 月 | 水海道へ 上 郷へ 沓 掛へ 吉 沼へ | 人足 55 馬 21 人足 23 馬 5 人足 25 馬 0 人足 15 馬 0 | 人足118 馬 26 | 宗 道へ 下 妻へ 吉 沼へ 上 郷へ 沓 掛 崎 房へ | 人足104 馬 38 人足 33 馬 23 人足 20 馬 11 人足 23 馬 14 人足 29 馬 11 | 人足209 馬 97 | 人足327 馬 123 |
閏 4 月 | 水海道へ 沓 掛へ 不 明 | 人足 68 馬 13 人足 42 馬 7 人足 20 | 人足130 馬 20 | 宗 道へ 下 妻へ 吉 沼へ 上 郷へ 沓 掛 崎 房へ | 人足 45 馬 19 人足 37 馬 9 人足 27 馬 19 人足 45 馬 17 人足 28 馬 18 | 人足182 馬 82 | 人足312 馬 102 |
5 月 | 水海道へ 上 郷へ 岩 井へ | 人足 51 馬 12 人足 22 馬 6 人足 6 馬 0 | 人足 79 馬 18 | 宗 道へ 下 妻へ 吉 沼へ 沓 掛 崎 房へ | 人足 46 馬 25 人足 25 馬 11 人足 23 馬 10 人足 53 馬 24 | 人足147 馬 70 | 人足226 馬 88 |
計 | 人足327 馬 64 | 人足538 馬 249 | |||||
合 計 | 人足865人 馬 313匹 |
新井清家文書「継立人馬書上帳」より作成 |
なによりも表からよみとれることは、上りと下りの継立人馬数の大きな違いである。上りに対して、奥州方面への下りの継立人馬数は、人足が一・六倍、馬が三・九倍と圧倒的に多い。その理由は、この時期に会津藩を中心とする奥羽諸藩が、反政府同盟を結成する動きが明確化してきており、これを鎮圧するために政府軍が派兵と武器搬送を石下宿を通る脇往還をつかってしたことを例証している。
三か月間に上り下り合計人足八六二人、馬三一三匹という継立は、四石下村の負担能力をはるかに越えており、近村より雇揚げせざるえなかった。その上、政府追討軍の休泊賄費まで負担しなければならなかったのだから、当時の村民の困苦は測り知れないものがあった。