王政御一新と申すは、万民の疾苦を救い、各人が安堵できるようにとの叡慮によるものである。ところが
下々の者にいたっては、御趣意を心得違いをして、わずか徳川三〇〇年の恩顧を思い、日本開闢以来の天
朝数千年の鴻恩を忘れているものがいる。もともと徳川は天朝の役人であって、現在慶喜は恭順謹慎に処
している。それにもかかわらず、徳川の恩と唱えて王師に抗することは、天朝のみならず慶喜の志にも反
する大逆無道なことである。村方役人はこのことをよく村内のものに申諭し、悪行など働くものがないよ
うに監督せよ(新井清家文書)。
鬼怒川西地区の村々にも、七月十七日には政府軍一三人が猿島郡から崎房村、岡田村などを鎮撫取締りを名目に検分している。その際に、鎮撫府より猿島・岡田両郡の取締り向は、古河藩に委任する旨の申渡しがなされている(長塚幹之助家文書)。こうして、黒船来航以来の幕末石下の騒擾は、鎮撫府の手によって一応鎮静化し、九月八日をもって明治という新しい時代を迎えるのである。
Ⅷ-10図 五榜の掲示(渡辺修氏蔵)
Ⅷ-11図 高札場(秋葉紋子家)